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2023年3月、沖縄先島諸島サイクリング旅(概要)

1。本サイクリングツアーの趣旨(目的、想い)と総括
 4年前に沖縄本島を一周するサイクリング旅をした(末尾にこの旅の概要と総括も紹介したい)(※)。社会問題に多少の関心のある身にとって、原発問題と沖縄問題は、様々な思考を呼び起こさせられ、その度に心を乱されるテーマでもある。その時は、初めての沖縄への旅であり、実施前後に、映画、文学、歴史、政治、民族など様々な角度から、多様なソースにあたって勉強をした(つもりだった);遡ること薩摩の琉球支配から始まり、先の沖縄戦での本土の代わりに人身御供にされて受けた甚大な犠牲、沖縄だけ切り捨てられた日本の国際社会復帰、米軍施政下での虐げられた人々の暮らし、本土復帰後にも、人口も面積も日本の1%ほどの沖縄に75%以上の米軍基地が押し付けられ、基地があることによる犯罪や事故による痛ましい被害を被っている現実。その不平等、差別を見て見ぬふりをし続けてきている本土の日本人。一方で、本土の犠牲にさせられ差別されてきた沖縄と、単純に一括りにできない構図が沖縄の内部にもあることに気付かされた。

(※)本サイクリングも、4年前の沖縄本島一周サイクリングも、さらには、その沖縄本島一周サイクリングの前年(5年前)の台湾一周サイクリングと、翌年(3年前)の台湾周回サイクリングも、同じパートナーY.O.氏との二人ツーリングである。5年前にサイクリングの魅力を教えてくれ、その後も走りのコツや技術を指導、アドバイスをしてくれているベテラン先輩サイクリストであるが、本文中では、"同行者"、あるいは"相棒"と呼ばせていただく。

 それから4年が経ち、今度は、沖縄本島から遥か南西の海上にある、日本屈指のリゾート地となっている先島諸島を巡るサイクリング旅をした。少し学び始めてすぐに気づいたのは、先島諸島(※)は、沖縄本島とは歴史も文化も元々異なる地域であり、沖縄本島に長く栄えた琉球王朝の過酷な支配を受けてきた土地であったということ。もう一つは、奄美大島から先島諸島までの長大な日本最南端の島々、南西諸島が、この数年間の間に、中国との緊張関係から、急速に軍事基地化が進んできているということ。今回の旅のコースの中心となった宮古島と石垣島も、地元の人々の十分な議論や合意がないまま、ミサイル配備が急ピッチで進められている。こうした、現代の日本社会が抱えるもっとも重大な課題の一つが、この地域に存在するのであった。

(※)先島諸島は、明治時代以降、沖縄本島のさらに先にあるという意味で使われるようになった呼び名のようだが、さらに、北に位置する宮古島を中心とする宮古諸島と、南に位置する石垣島を中心とする八重山諸島に、地理的にも歴史的にも分けられている。

 しかし、沖縄戦で強いられた犠牲も含めて、どの課題、問題に関しても、地元の人々と会話する機会がなかったことはもとより、地元で議論され、なんらかの行動が起こされている姿は現地で目にすることはなかった。そうした、疑問や反発の声や行動は、後記するような書物、映像作品やネット情報から"能動的態度”で得ようとして、で初めて知り得るのであった。

 しかし、いつもながらに、自転車で見知らぬ土地を巡り、その土地の風景、風土、人々の仕草、態度、言葉、などに触れて、その土地と人々の輪郭のようなものが捉えられたように思う。もう一度近い将来訪れて、今回訪れることができなかった日本最西端の与那国島、最南端の波照間島なども巡ってみたい。各所の軍事施設がどのような形に変貌していくのかも大きな気がかりである。

 なお、実は、長年思い描いていた旅の計画は、九州から出発し、奄美大島を中心とする奄美諸島を飛び石にして、沖縄本島に辿り着き、さらに先島諸島の主要な島々を巡るというものであった。しかし、コロナ禍で時が過ぎたことや、長丁場の旅になることから、実行は難しくなり、先島諸島に絞ったサイクリング旅をすることになった。奄美諸島は、近い将来に訪れたいと考えている。

2。行程概略

行程(概要)

参考情報:
【先島諸島全体図】以下を直感できる
・沖縄本島との距離(遠さ)
・台湾との距離(近さ)
・フィリピン海プレートが沈み込む地溝帯との距離(近さ)

先島諸島(海洋鳥瞰図)(Google マップ)

【訪れた主な市町村の人口】
 宮古島  約5万5千人
 石垣島    約5万人
 西表島   2300人(上原地区1200人、大原地区1000人)
 竹富島    300人
 *)竹富町は、八重山諸島のうち、石垣島を除いた9つの有人島とその他の無人島からなる町で、人口約4千人。そのため、西表島に行っても、住所が、竹富町になっている。そして、町役場が、石垣島の離島フェリーターミナルのすぐ近くにある!なるほど、石垣島のフェリー港の前にあれば、どの島からも、1航路で町役場へ行くことができる。

竹富町

【農地の風景について】

宮古島 さとうきび畑しか目に入らない。
石垣島 さとうきび畑に加えて、水田も、島の南西部では目に付く。牛の放牧や牛舎もあちこちにある。
西表島 さとうきび畑も水田も目に入るが、大半が山であり、わずかしか農地はないように見える。内陸に入っていくと、パイナップル畑やマンゴ栽培の温室がある。
竹富島 牛の放牧の姿はあるが、それ以外、農地は全く見当たらない。衛星写真で見ても、密林灌木で覆われており、農地は、昔からなかったと思われる。

【旅に関連する主な資料】

1)書物
・谷川健一「沖縄 その危機と神々」講談社学術文庫
・吉浜・林・吉川「沖縄戦を知る事典 (非体験世代が語り継ぐ)」吉川弘文館
・上間陽子「海をあげる」
・黄インイク(Huan Yin-Yu)「緑の牢獄」
・国永・松田(他)「石垣島で台湾を歩く もう一つの沖縄ガイド」沖縄タイムス社 
 ※観光ガイドに加えて、八重山の開拓史、八重山の「戦争マラリア」、台湾から渡ってきた人たち、台湾へ渡って行った石垣島の人たちについて知ることができる。
・「美しい日本 12 沖縄・小笠原の自然」世界文化社
など。

2)映像
・「太陽の子 てだのふあ」(原作 灰谷健次郎)浦山桐郎監督
  1980年度キネマ旬報ベスト・テン日本映画部門第10位
・「沖縄スパイ戦史」三上智恵、大矢英代(おおやはなよ)
  第92回キネマ旬報ベスト・テン 文化映画ベスト・ワン他、受賞多数
・「島がミサイル基地になるのか 若きハルサーたちの唄」湯本雅典監督
  https://yumo.thebase.in/items/55912414
・「海の彼方(After Spring, the Tamaki Family...)」黄インイク(Huan Yin-Yu) 
  ※石垣島に暮らす玉木玉代おばあの”最後の里帰り”を通して、日本、台湾、沖縄の歴史を振り返る
・NHK Eテレ 『小雪と発酵おばあちゃん「沖縄 みき」』 2022年12月1日(木)
 ※神事にも使われるという“みき”という神秘的な発酵飲料”沖縄のソウルドリンク”造りの紹介
・NHK特集 沖縄・海ものがたり「海人と巨大珊瑚礁」1988年
・NHK ETV特集「沖縄の夜を生きて 基地の街と女たち」
 ※戦後の沖縄で、アメリカ軍人相手の夜の商売で生き抜いてきた女たちの壮絶な人生。大半が、離島から、自分と家族の命を支えるためにやってきた若い女性たちだった。

など。

3)ネット情報

宮古島戦災:
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/okinawa_02.html

戦争マラリア:
https://seikatsuclub.coop/news/detail.html?NTC=1000000840

ーーーーーーーーーーーー(付記)ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
***  沖縄一周サイクリング旅の記録(2018年6月)  ***
     (当時の記録に一部加筆)

1。概要
 飛行機に輪行袋に入れた自転車をうまく預けられるのかという不安(※)は、羽田のチェックイン(JAL)で見事に払拭された。自転車と伝えただけですんなり受け付けてくれて、寸法も測らず、専門の担当者を呼んでくれる。少し待たされたが、バッグの中に入っているものを聞かれ、出してみせると問題なしと受け付けられた。タイヤの空気は、気にしておらず、抜かなくても良いようだったのが意外だった。那覇空港についた時には、台湾の時に自分の自転車を輪行した同行パートナーの自転車同様、担当者が直接運んできてくれた。なお、帰りの便の時は、同じJALなのに、荷物台に乗せられて出てきた。仕組みがどうもよくわからない。

(※)この前年、台湾一周サイクリング旅をした時は、台湾人の友人から現地で自転車を借りて走ったため、自分の自転車を飛行機に乗せるのはこの時が初めてだった

 この時期、沖縄は梅雨の季節ということで、日本本土から訪れる観光客は少ないようで、早割で9900円という安さにもかかわらず、行きも帰りも飛行機は空席が多い(3割くらいの搭乗率)。逆に、那覇に着くと、ホテルは中国人ばかり。観光地も同様に、中国人、韓国人を中心とした外国人の姿ばかりが目立つ。

 最大の懸念だった天候については、行く前から、天気予報を確認し続けていたが、予報がすぐに変わり、かつ直前の予報も外れるという、梅雨空の不安定さを思い知らされた。梅雨前線が、沖縄の上空近辺に居続けているのだが、北に押し上げられるか南に押し戻されるかによって、天気が変わるため。直前まで、ほぼ毎日雨の中を走る覚悟をしていたが、結果的には、天気は良い方に振れて、初日:晴れ、二日目:午前中雨風やや強く徐々に治まる、三日目:曇り、四日目:曇りのち一時雨。結果的に色々なタイプの天候の中で沖縄を一巡りすることになり、貴重な体験となった。雨の際東海岸の県道が滑りやすくなることを心配していたが、それほどの不安を感じることはなかった。県道もよく整備されているという印象を受けた。

 初日と最終日は、那覇のディープな飲屋街栄町市場に隣接する中規模の観光ホテルに宿泊して、輪行袋などを預けて周回して戻ってきてピックアップするスタイル。同行者の知り合いの居酒屋「おとん」は、残念ながらいずれの日もお休みだったので、初日はホテルのオススメの店、最終日打ち上げは、歩き回って雰囲気で決めた。どちらも悪くないお店に当たった。特に、最終日のお店「あぶさん」は、若い女性オーナーが一人で切り盛りするお店で、料理に加えて受け応えと笑顔が好感もてた。しかし、ここの飲屋街は、平日、日曜日の夜とはいえ大半が閉まっているのはうらさびしい感じがしないでもない。

 宿泊の宿としては、ツアー初日に泊まった今帰仁村の沖縄古民家が最も印象的で満足感が大きかった。古民家の古材を利用して新たに作った家だという。南側と東側の縁側の雨戸を開け放つと、居室が外の空間と一体となり、風の通りが素晴らしく、開放感に浸ることができる。この空間の中に懐かしい蚊帳をつって過ごす一晩は快適だった。蚊や虫が気にならなかったのが不思議だ。浴室、トイレや部屋の設備も真新しく、気分が良い。トイレにかかっていた宮沢賢治の詩「雨にも負けず・・・」が、オーナーの生き方や心持ちを感じさせて、好感を持った。ツアー二日目は、東海岸の国頭村楚州(そす)の一軒宿、朝日屋。オーナーは、東京出身で、宮古島でのマリンスポーツの生活から知人の伝手でこの地のこの施設を譲り受けて奥さんと暮らしているという。ロードバイクも乗り、ジャイアントの最近の自転車を保有していて、素敵なカヤックも持っていた。世俗から離れて、海や山に囲まれて心穏やかな暮らしをしているという雰囲気をちょっと羨ましく感じる。ツアー三日目は、基地の街金武町(きんちょう)の真ん中にあるどうも米軍関係者の家族づれを相手としているゲストハウスという雰囲気。家の作りは貧弱でアメリカ的。道順や住所の情報でも、探すのに苦労したことや清掃費として宿泊代の3割も取られるのもマイナス評価。

今帰仁村の沖縄古民家

 沖縄の食事では、まず新鮮な海ぶどうの美味しさに驚く。鮮やかな黄緑色とプチプチ弾ける食感がいい。ブランド化しているアグー豚の肉料理は、どれも美味だ。沖縄そばは、独特の麺で、それ自体がうまいまずいというより、麺の個性的な食感と工夫されたスープの味に存在感がある。三日目、大浦湾手前の「Cafeいしふじ~やんばる店」で食べた沖縄そばが特に印象的。沖縄で酒といえば泡盛だが、20度や30度の泡盛は、ロックにして飲んでも、強い酒という感じがせず、普通に飲める酒だったのが意外だった。

 サイクリングについては、台湾一周と同等に1日平均90kmを走ったものの、台湾の時ほどの負荷を感ぜず、大いに余裕があった。上り下りも想定ほどきつくなく、6時出発では、余裕をもってその日の目的地へ到着できた。上りでは、メタボ気味に重量が増加した同行者に差をつけ、下りではそのメタボ重量ゆえに差をつけられることの繰り返しとなる。

 テントを含めてかなりの荷物を積んで自転車日本一周途中の青年に沖縄本島最北端の辺戸岬で追いついてしばし会話した。東京からスタートして、西日本の太平洋側を走って沖縄へ渡り、我々と同様時計回りに沖縄本島を回っていた。夏からは、カナダのアンカレッジへいくと言っているところを見ると、若き冒険家かと想像させる。我々の自転車を見て話しかけてきた香港の中年男性は、自分も自転車愛好家で、日本人で初めて自転車で世界一周旅行した人間の事やら、今までに自転車で世界一周した日本人の数を知っていたりと驚かされる。韓国のソウルから釜山まで続く自転車道600kmを6日間かけて走りとても良かったという感想を述べていた。我々も彼の話から、当初台湾一周の前に韓国サイクリング旅を計画していたことを思い出して、改めて挑戦してみたくなる。

 沖縄の自然について一言。初めて沖縄を訪れて沖縄の海の美しさを実感した。恩納村の海岸、楚州の海辺、大浦湾と辺野古の浜、南城市の南岸など、海に入る機会はなかったものの、美しい海岸の光景を見ることができた。北部の密林地帯「やんばるの森」では、ヤンバルクイナが目の前の道を横切る姿に2度出会った。花は、沖縄三名花の一つで県の花にもなっているという「デイゴ」の花が真っ盛り。初日、幹線国道58号沿いの公園に咲く、南国らしい真紅の艶やかなデイゴの花のもとで記念写真を撮り休憩した。しかし、最も沖縄の自然を感じたのは、美ら海水族館の中だったかもしれない。巨大なジンベイザメや巨大エイが悠然と泳ぐ姿に加えて、沖縄の海で生きる様々な海洋生物の姿に豊かな海を実感する。沖縄最高峰の与那覇岳(503m)に登るチャンスがなかったのは残念だったが、今回はそこまで欲張る余裕はなかったのでやむを得ない。

デイゴの花のもとで

 最後に、今回の沖縄ツアーのハイライト、最も重要な体験である、「戦後の基地問題」と「沖縄戦の傷跡」について記したい。初日に、普天間と嘉手納の基地の横を走り、その巨大さを実感する。同時に、基地に出入りする多くの車から、基地で働く人々の生活も実感する。ツアー後半は、米軍基地の撤退を求めて抗議の座り込みをする沖縄の人々の姿に接する。最初に、高原地帯と思われる地域に存在する高江村での抗議の姿。そして、キャンプシュワブに接する辺野古で進められている基地建設に反対する人々の姿。キャンプシュワブのゲート前には、テントと多くの抗議する人々の姿があり、そのうちの一人、快活な中年女性に大きなペットボトルから水を分けて頂きながら、抗議活動の状況や、辺野古の海へ近づく方法を聞いたりした。この間、警備の人間から、我々も(座り込みの連中と話なんかやめて)早く行けと何度も後ろから怒鳴られる。彼女の話では、当局にブロックされて辺野古の海には近づけない、海から船で行くしかないという。それでも、ブロックされるところまで行ってみようと、スマホの地図を頼りに辺野古漁港へ行ってみたところ、漁港の先に座り込みのテントがある。驚いたことに、ここから基地建設の様子が一望できる。テントに3−4人。そのうちの一人から、詳しく、埋め立ての現状や反対運動の状況を説明してもらう。大浦湾は海底が深く、沖縄でも一番の海洋生物の宝庫であることも知る。座り込みは5百数十日続いているという。迂闊にも、勝手にシャッターを切って、一人から注意を受ける。しかし説明をしてくれた人は、そんなことは気にしない態度で、この反対運動に対して肝が座っていることを感じた。

キャンプシュワブのゲート前で抗議する人々の姿

 摩文仁の平和祈念公園では、最も多くの時間を過ごしたが、それでも出立時には後ろ髪を引かれる思いがあった。「平和の礎(いしじ)」は大田昌秀元沖縄県知事の考案で築かれたものと知る。この「平和の礎」の前の広場には、修学旅行の中学生たちが絶えることなく訪れていて、「平和の礎」に向かい、平和を祈る合唱を捧げたり、平和への思いを記した作文を朗読したりする姿があり、思いもよらぬ胸を打たれる姿であった。彼らと一緒に黙祷を捧げた。日曜日だったが、思ったより一般の日本人観光客は少なかったのも意外だった。戦没者の名前が刻まれた墓碑は、軍人、民間人を問わず、また日本人、米国人、韓国人、台湾人といった国籍、人種を問わず、沖縄戦で犠牲になった人たちの名前が刻まれている。米国人家族の姿も見られ、碑の前に備えられた花も見られた。摩文仁の丘では、都道府県別と厚生省の墓石があったのには、極めて強い違和感を感じた(※)。身を投げた人々を鎮魂する碑に献花し、併せて崖から花を投げて祈りを捧げた。「健児の塔」は、崖の遥か下、海岸に近いところにあり、訪れる人は少ない印象があったが、高等師範学校の300余名が鉄血勤皇隊の隊員として命を落とした悲惨な現実を忘れてはならないだろう。

(※)当時の記録には、このような曖昧な表現があるのだが、その真意が、今となっては判然としないため、事実関係を少し調べてみた。そして、自分の勉強不足を大いに恥じることになった。

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先のアジア太平洋戦争で本土の盾にされて、住民の4人に1人が犠牲になった痛ましい沖縄は、その後も苦難の道を歩んだ。その最大の原因は、日本から切り離され、米国の施政権下で、軍事基地の島にされたからである。そのため、日本の国土で唯一かつ甚大な戦争犠牲者が出たにもかかわらず、遺骨収集や慰霊碑の建立を自由に行うことが困難な状況に置かれていた。

日本政府は、琉球政府(米国)に委託する形で、
・昭和32年(1957年)に那覇市識名に戦没者中央納骨堂を建立した。
・昭和47年(1972年)に沖縄が日本に返還される。
・昭和54年(1979年)厚生省(当時)は、国立戦没者墓苑を摩文仁の丘の平和祈念公園に設立し、那覇市識名の戦没者中央納骨堂から遺骨を移し、18万人の遺骨を収めた。その後、
・昭和60年(1985年)に納骨堂を増設した。

一方、日本の各都道府県は、昭和30年台から40年台初めにかけて、各都道府県出身者の沖縄での犠牲者を慰霊するために慰霊碑をこぞって建立した。そのうち32の府県の慰霊碑は、摩文仁の丘に建立された。この時期、まだ沖縄は日本の地ではないので、摩文仁の丘には、日本政府の戦没者墓苑もなければ、平和祈念公園もできていない。

1972年5月15日、沖縄が日本に返還されて発足した沖縄県は、この日に、摩文仁の丘を平和祈念公園として制定した。
終戦50周年の1995年、革新県政を推し進めた大田昌秀沖縄県知事の主導で、沖縄県は、この地に慰霊碑「平和の礎(いしじ)」を建立し、国籍、軍人民間人問わず、沖縄戦の全戦没者24万人の氏名を刻んだ(刻銘碑)。

コロナ禍の昨年2022年、沖縄県民有志の企画で、6月23日の「慰霊の日」に向けて12日から12日間かけて、「平和の礎(いしじ)」に刻まれた、24万1686人の犠牲者全ての名前をオンラインで読み上げるリレーが行われ、前日22日には、沖縄の高校生たちが礎(いしじ)の前に立って読み上げ、そのまま夜通し読み続けられて23日午前中に読み終わった。合計250時間、参加者は1500人を超えたという。

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平和の火
平和の礎
献花する筆者
献花する相棒

 ひめゆりの塔は、平和祈念公園から4kmほどのところにあり、幹線道路に面している。沖縄陸軍病院に看護要員として従軍した「ひめゆり学徒隊」の彼女たちのうち、第三外科壕に身を隠した生徒の大半が命を落とした。その洞窟の上に、二人の娘を亡くしたご両親の思いをきっかけに地元の人たちの手で塔が建立されている。塔の前で献花し、隣接するひめゆり祈念資料館を見学した。ここにも中学生の集団が訪れている。「ひめゆり」の生存者たちの証言ビデオが、米国側が撮った沖縄戦の映像とともに上映されている。生々しい体験が語られていて、なかなかその場を立ち去れなかった。受付の女性に、「ひめゆり」の由来を訪ね、丁寧に説明していただいた。沖縄女子師範学校と沖縄第一高女それぞれの発行していた同窓会誌、「おとひめ」と「しらゆり」から「ひめ」と「ゆり」をとって組み合わせ、戦後この碑ができてからそう呼ばれるようになったという。沖縄には「ヒメユリ」は咲いておらず、「テッポウユリ」が、美ら海水族館のある海洋博公園の目の前に浮かぶ伊江島などで群落をなして咲くという。なお、この二つの学校は、かつて、那覇での我々の宿がある栄町市場の中にあったそうで、今、小学校があるあたりで当時学校の敷地にあった井戸がその面影を残しているのみだという。

 こうして、昨年(2017年)の台湾一周ツアーにも勝るとも劣らない満足感と充実感で、沖縄本島一周自転車ツアーを果たすことができた。特に、今回は、自分の自転車で様々な天候の中、総走行距離360kmを4日間で走りきり、自転車と一体となった快感を感じることができたように思う。次の挑戦ツアーに思いを馳せつつ筆を置く。

2。旅に先立って読んだり、観たりした主な資料

【図書】
「佐藤優の沖縄評論」 (光文社知恵の森文庫)
「沖縄の歴史と文化」 (中公新書)
「沖縄のこころ―沖縄戦と私」
「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」
「命こそ宝―沖縄反戦の心 」(岩波新書)
「沖縄ノート」(岩波新書)
「沖縄の不都合な真実」 (新潮新書)
「沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史 上」

【映画】
「ひめゆりの塔」
「沖縄決戦」
「うりずんの雨」 

3。行程概要

       ******* 終わり *******

 


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