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【精神】なにもできない日がもどかしい

*2021/05/25に書いた文章です。

にじさんじのVtuber、シスター・クレアさんのツイート。今回の記事のタイトルにもそのまま引用させてもらった。シスターのいうこの言葉の意味するところはおそらく、自分の為すべきことをすべて為したうえで、それでも自分のキャパシティが足りず、理想とは程遠い現実に悩んでいるといったところだとお見受けするが、私の場合、シスターの意味するそれとはまったく異なる意味で〈もどかしさ〉を感じている。

最近、とんと文章を書かなくなった。今年の3月頃までは、日によっては5,000字~10,000字、平均すると1日に4,000字程度(12万字/月程度)の文章を書いていたのだが、最近ではこの習慣も途絶えた。習慣というのは怖いモノだ。一度文章を書かないという習慣が形成されてしまうと、文章を書かないことが普通になってしまう。現在は、どうやら躁うつ病のうつ期にあるようで、ここ1週間くらいはトイレと飯と風呂以外はずっと布団の中にいる。飯と風呂さえ、たまに欠かす。ひどい有様だ。まったくなにもやる気が湧いてこない。PCを開ける動作すらだるい。久しぶりのひどいうつだ。文章を書くことで1日の中で何かを達成したという充実感を得ていた私にとって、文章が書けなくなることは由々しき事態だ。うつによって文章が書けなくなり、文章が書けなくなることによってうつが悪化するという負のスパイラルに入っている。

最近、あまり楽しい記事を書けていない。特にVtuberの記事については訳あって今は書くことを中断している。私のフォロワーさん(読者さん)の中には、Vtuber関連の記事が読みたくて、私をフォローしてくれている人も多いはずだ。期待に応えられず申し訳ない。最近、情報収集のためにYouTubeを観るのもつらい状況で、近頃のVtuber事情にまったくキャッチアップできていないというのが現状である。私としても心苦しいところがある。

ひどい鬱のせいか、本来であればやらなければならないこともまったく進んでいない。障害年金の申請書類をまとめるのもままならないし、自分にノルマとして課した勉強もまるで進んでいない。こういう状況は、自尊心をゴリゴリ削っていく。

私はなにもできない無能者だ。この世にいない方が良いのではないか?家族の負担にしかなっていない。将来、どうやってメシを食っていくべきか?そのためにすべき努力もできていない

こういう思考が頭の中を堂々巡りして、時折自殺念慮に発展する。頓服を呑んでなんとか抑える。うつというのは本当に恐ろしい病だということを今、実感している。自分の意思とは無関係に、むしろ自分の意思に反して、身体が/精神がいうことをきいてくれない。自分を責めることに意味はない。なぜなら、何の改善ももたらさないからだ。ということが頭の中では理解できていても上記のような思考に陥ってしまう。

とりあえず、薬は毎日決められた時間に決められた用量吞んでいる。今の私にできることは医者の指示どおり薬を呑んで、しっかり眠ること。とりあえず、これができれば1日のミッションはクリアしたということにしている。というか、これしかできない。

日中、起きていられないほどの眠気に襲われ、まだ平日の真昼間なのに寝てしまうということもしばしばある。もちろん、夜は睡眠導入剤の力を借りてしっかり眠っている。これにより、生活リズムが崩壊し、起きられる時間がきわめて短いかつ起きている時間の覚醒度がかなり低下して、何にも手が付かない。これはたぶん、最近ひどい鼻炎に悩まされていることも関係しているだろう。鼻炎を抑えるために鼻炎薬を呑むと激しい眠気に襲われる。試しに眠気の出にくい鼻炎薬を購入してみたが、肝心の鼻炎にあまり効果がなかったため服用をやめた。うつによる気力の低下と鼻炎による集中力の低下の併せ技で、現在の私の生活は廃人化している。カフェインの投入などにより、日中の覚醒度のコントロールを試みているが、今のところあまりうまくいっていない。

昨日、何の偶然かたまたま日中に起床できたので、10日ぶりくらいに日中に外出した。とはいっても、近くのコンビニに買い物に行く程度だが。たくわえた無精ひげは「ジョリジョリ」という感触を通り越して、「フサフサ」という感触に移行しつつあった。髪の毛も随分伸びたことは、寝癖のうねりの強さが物語っている。髭も剃らず、寝癖も直さず、ほとんど寝間着の格好のまま、平日お昼の15時くらいに目を覚ますためにコーヒーを買いに行った。平時であれば、平日のこんな時間帯に私くらいの年頃の者が、仕事でもないのに外出しているのを見られたら、奇異の目に晒されるにちがいないが、今はコロナウイルス禍のしかも緊急事態宣言下であるので、私のみすぼらしい格好も「リモートワークなんですよ」とかいっておけば、なんとかやり過ごせる。無精ひげもマスクで隠れている。

自宅の扉を開けてすぐのところにある非常階段(筆者はマンション住まいである)の手すりに大きな鴉が留まっていた。10日ぶりの外出でいちばん最初に目にしたモノがそれだったので、なんだか不吉な予感がした。鴉は私を一瞥したが、とくに何も反応を示さず、私のことを特に意に介していない様子だった。「なんて図太いヤツだ」と思いながら、私は鴉の数十センチ横を通り過ぎた。久しぶりに外に出てみると、人があきらかに少ない。そりゃそうだ。今日は平日で、時刻は15時。普通の人は、だいたい仕事をしている。しかも、現在緊急事態宣言下で、不要不急の外出を控えるようにアナウンスされている。ちなみに私がコーヒーを買いに行くのは、私にとって生活必需品であるカフェインを購入しにいくためであって、決して不要不急ではない。

家から最寄りのコンビニ(セブンイレブン)に到着したが、私はこのコンビニを利用しない。ここは、そのまま通り過ぎて、もう少し奥にあるコンビニ(ローソン)を利用する。セブンイレブンの入り口脇に併設されている喫煙スペースでサラリーマンとOLと思われる3人組が、煙草片手になにやら談笑していた。営業の外回りなのかな?遅いお昼休みなのかな?何を話しているのかな?など色々考えたが、すぐに悲しく虚しい気持ちに襲われた。世間的には彼らは「まともな人」で、私は「まともではない人」だからだ。外に出て、人を見かけると必ずこの人物は”こちら側”の人なのか考えるクセがついてしまった。そして、だいたい”こちら側”ではないことを知って落ち込む。第一、私と同種の人間(”こちら側”の人間)は、家に引きこもって外に出ないから、外で出くわす可能性は極めて低い。

コンビニ(ローソン)に着いて、アルミボトルのコーヒーを2缶買った。1缶は店を出てすぐに飲み干した。絶妙にマズい。マズいコーヒーにありがちな後味のイヤな渋さが残る。マズくてもなんでもカフェインさえ摂取できればよかったので、今日の目的はこれで達した。そのまま家路についた。懸賞で当てたDEAN&DELUCAの横長のトートバッグにコーヒー1缶入れて。セブンイレブンで煙草片手に談笑していたサラリーマンと思われる集団とは、ちょうどその頃一服を終えて仕事に戻るのかなというところですれ違った。自宅マンションに戻ると、あの鴉はまだ居た。同じ手すりに留まっていた。横を通り過ぎると「カァーカァー」というけたたましい声をあげて太陽に向かって飛び去っていった。10日ぶりの外出であった私には太陽の光が少し目に沁みた。

帰宅して、2缶目のカフェインを注入したが、その効果むなしく猛烈な眠気が襲ってきて、家に着いてすぐ眠ってしまった。起きてスマートフォンで時刻を確認したら、23時だった。家族は皆、メシを食って、風呂に入ったあとだった。その日はなんとかメシと風呂を済ませて睡眠導入剤を呑んで、深夜1時くらいに床に就いたが、次の日(今日)も朝、ものすごい倦怠感で身体を縦に起こすことができず、結局22時ごろまで布団の中で過ごした。

このままの生活ではいけないという焦燥感が募るばかりで、何もできずに1日が過ぎていく。皆は、毎日前進しているというのに、私はその場に立ち尽くすばかりである。実質的には後退している。いろいろとやりたいことや目標はあるのだが、それに向けた準備をいざ実行しようと思っても、思ったとおりに身体や精神が動いてくれない。非常にもどかしい。

近頃は生きていることが本当に苦しい。毎日、生きていることの罪悪感に苛まれている。罪悪感を覚えるというのは非生産的な営為であるので、やめられるものならやめたい。なにかもっと世のためになるモノを生産したい。長いこと今の病気を患っているので、こういった時期は過去に何度も経験している。少しは「また、来たか……」という"慣れ"の心境にも至れるようになってきた。ただ今は新しく何かを始めたいタイミングである。後ろからタイムリミットも迫ってきている。だから、動けないことにより強い焦りを感じる。やることは今までどおり変わらないのだが。今停滞している場合じゃないという自分がどこかにいて、自分を急かしてくる。焦燥は回復を遅らせる。だから、そういう自分をどうにかして抑え込みたい。これも「焦燥」なのかもしれない。友人からは「人生なるようになるし、なるようにしかならない」と言われたが、それは毎日粛々と為すべきことをしている人がいう台詞であって私のような怠け者が口にしていい台詞ではない。粛々と毎日為すべきことを為せていたら、私もこれだけやったんだから、うまくいかなかったら仕方がない。自分にできることはやったと人生を達観できるのかもしれないが、今の私は為すべきことを為せていない。やるべきことをできていない。

今の私が今いる苦境から抜け出そうと思ったら、常人の何倍も努力しないといけない。しかし、今の私は常人並みの努力すらできていない。これを単なる精神論で片づけるのではなく、システマティックに解決できる方法を今考えている。努力しなければならないと思ってする努力はなかなか続かない。努力できる環境・システムを自分で構築して、それに乗っかって毎日を過ごしていたら、自然と他人が努力と名状するモノをしていたというのが理想である。後から振り返って、事後的に「あのときは努力していたんだな」といえる環境・システムを構築することを目指す。粛々とそして淡々と毎日為すべきことを為すために、万難を排して日々のぞむ。簡単なことではないが、そうなれたら良いと思っている。


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