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【文章】やる気がないなりに何か書いてみよう─躁鬱持ちとしてなにができるか─

3/1になった。以前申し上げたとおり、近頃の私は月初に心身の調子が悪くなる傾向にあるようだ。現在も躁鬱の「鬱」状態に入りかけている。意欲・思考力の低下が著しい。文章を書くという行為は、(私の場合)特にインプットにエネルギーを使うので、こういう時期に書く文章は、すでに完成したストックから放出するか、インプットがすでに完了しているモノが多い。昨日(2021/02/28)投稿した記事なんかはそうだ。

「躁鬱」というのは、いちおう病気だ。脳の機能異常によって、脳が活動を強制的にストップさせられている状態だ。そんなときは、いくら文章を書こうと思っても書けない。だから、ボーっとしてアイデアが湧いてくるのを待ったり、何もせずに寝ているだけになったりする。私にとって、このような「アイドリングタイム」は、文章を創作するうえで不可欠なモノだと捉えていた。しかし、最近、「そうでもないのかなあ……」と思うことがある。

最近、三島由紀夫の『小説読本』を読んでいる。物書きとして、三島の小説の方法論や美文家として知られる三島の文体などを勉強しようと思ったのが、この本を手に取ったきっかけだ。その、冒頭に収録されている『作家を志す人々の為に』にこんな記述があった。

 さて日本の作家生活というものは決してある人たちが憧れているような楽しいものでも豊かなものでもない。そこでは小説家はマラソン選手のように体力を最高度にすりへらされ、休養も与えられず、又ゆっくり本を読んで勉強する時間も充分与えられず、芸術家にとって一番大事な「ボンヤリして何もしないでいい時間」というものはまるっきりなく、まるで意地のきたない子供が母親の留守に戸棚のすみずみまでお菓子を探し回って歩くように自分の中から、汲みつくせる以上にたくさんの小説を作り出さねばならぬ。

──『小説読本』三島由紀夫 中公文庫 p.12

 作家は絶えざる消耗を強いられ、又日本独特の発表システムの弊害も手伝って、外国の作家の様に一作一作自分を育てきずきあげて行く事はむずかしい。
 その中でいかにしていい作品がかけるかはむしろ単なる偶然に委ねられている感がある。長い準備と綿密な調査との上にたてられた大建築のような小説が生まれにくいのもこのためである。もしこれから作家になろうという人は、こういうさまざまな制約をくぐってそれと闘いながら自分の文学をそだてて行くというつらい困難な道を覚悟した人でなければならぬ。はやりの小説に便乗しようとか、誰それの作家の真似をしてやろうとか、まして、お金をもうけるためであるとか、そういう目的で文学を始める人は困ったものである。

──『小説読本』三島由紀夫 中公文庫 p.12-p.13

 作家にとっては或る世俗的な動機も立派な作品を生むもとになる事もあるが、根本の心がけは決して単なる世俗的なものであってはならぬ。
 バルザックは毎日18時間小説を書いた。本当は小説というものはそういうふうにしてかくものである。詩のようにぼんやりインスピレーションのくるのを待っているものではない。このコツコツとたゆみない努力の出来る事が小説家としての第一条件であり、この努力の必要な事に於ては芸術家も実業家も政治家もかわりないと思う。なまけものはどこに行っても駄目なのである。

──『小説読本』三島由紀夫 中公文庫 p.13

大前提として、私が目指すのは三島のような小説家ではない。第一、なろうとしてなれるものではない。もっと漠然とした広義の「ライター」であるとか「物書き」で、お金を取りたいと思っている。だから、三島とは、スタンスがちがう。私は、三島がいうところの「根本の心がけが世俗的な」人間である。まずもって、私はこれでもいちおう病人だから、脳が強制的に作動不能になって、なにもできなくなることが普通にありうる。だから、三島のいうような「小説家」然とした「物書き」にはなれない。

小説というのは、数多の小説家がいうとおり、綿密にプロットを練らねばならない。形式に縛られた文学でもある。物語の筋、トリック、登場人物の設定や相関関係、伏線、情景描写、心理描写等々、さまざまな要素が複雑に入り組んだ構造体を建造しなければならない。そこには、極めて強固な論理的思考力(数学的思考力)が必要である。三島のいうように「ぼんやりとインスピレーションのくるのを待っているものではない」。

ただ、最後の二文、「このコツコツとたゆみない努力の出来る事が小説家としての第一条件であり、この努力の必要な事に於ては芸術家も実業家も政治家もかわりないと思う。なまけものはどこに行っても駄目なのである」に、私はハッとさせられた。「コツコツとたゆみない努力が必要な事に於ては芸術家も実業家も政治家も変わりない」のである。「私は、彼のいうところの『なまけもの』なのではないか?病気を言い訳にして書くのをサボって、『アイドリングタイム』とか体のいいことを言って、ぼんやりインスピレーションのくるのを待っているだけの人間ではないのか?」と。

私は、バルザックのように1日18時間も文章を書き続けることはできない。そんな体力も活力も知力もない。だが、もう少しなんとかならないか?「書けない日」は書けないなりになんとか書けないか?80点が60点になってもいい。ある程度のモノを出し続けることが、文章でお金を頂くための必要条件ではないか?どうなんだろう?

こんなことを言っておいて、私は継続的に書き続ける自信がない。たぶん、これからも、時折休んだりすることはあるだろう。最近、「躁鬱」で調子が悪いです……と言いながらも、2日に1回の投稿ペースを崩さないように投稿をしているのは、上記の三島の文章から影響を受けているからである。調子の悪いときは、悪いなりに書く。これが結構大事なことだと思っている。こういうことを続けているうちに、病状が悪かろうが、筆が勝手に動くという次元にまで到達できないだろうか?ということを夢見たりしている。

私が知る限りでも、躁鬱もちの作家さんはいらっしゃる。そういう方は、調子のよい日に人の2倍~3倍の仕事をし、あとの日は休む。そういった執筆スタイルを取っている方もいらっしゃる。私も(執筆ペースだけは)似たような感じだ。

直近の通院で処方がまた変わった。今度の薬は新薬らしく、「躁鬱」の「躁」状態を抑え込む薬のようだ。私が文章を量産するときは、基本的に「躁」状態のときが多く、逆に「鬱」状態のときは冒頭に述べたように何も手につかないという状況になることが多い。最近は、「躁鬱」の「混合状態」なるものも出現しており、「気分的には鬱なのに、行動が躁のときのように多動・多弁になる」というややこしい事態も発生している。

私が心配しているのは、新薬によって「躁」が抑え込まれた結果、文章を書くバイタリティやインスピレーションが湧いてこなくなり、「前みたいに文章が書けなくなってしまうのではないか?」というところである。「躁」は、易怒性(怒りっぽくなる)などの非常に厄介な面もあるが、頭がよく回るのは事実であり、その性質によって助けられたことは幾度となくある。まあ、「躁」というのは「諸刃の剣」であるわけだが、「それがなくなってしまうと、私の凹凸の凸部分が均されて『平らな人間』になってしまうのではないか?」と心配している。

何がいいたいのかよくわからない記事になってきたが、結論としては、私は三島のいうような「小説家」然とした作家にはなれない。基本的には病気によって生じるバイタリティの波の凸部分において、たくさん仕事をするタイプの書き手になると思う。とはいえ、三島のいうような「小説家」然とした作家に近づきたいという思いもあり、「悪いときは悪いなりに書ける」ような「物書き」にもならねば……という思いも同時に持っている。今日(2021/03/01)書いた2本の文章は、「悪いなりに書いた」文章である。私としては、100点満点中60点というところである。

60点でもとりあえずペースを崩さずに書き続けられれば、相当な筆力がついていると思う。一応、今のところ、2日に1回くらいのペースで60点以上のモノが出し続けられている(2回だけ60点を下回った記事があるが笑)。

同時に「毎日書きゃ(投稿すれば)いい」というモノでもないと私は思っている。60点を下回ったモノを毎日投稿するよりは、それ以上のモノを2日に1回でいいから投稿するというスタイルの方が筆力がつくと、私は考えているからだ。「文章を練る」という作業(思考する作業)が入ってこないと、量をこなしていても、いつまで経っても筆力は上がってこないだろう。

英語を読むのだって、いちばん力がつくのは「精読」を繰り返すことだと思っており、文章を書くトレーニングも、それと同じことだと思っている。単語・品詞・文法・文の構造・コロケーション等がすべて理解できるくらいまで文章を読み込むトレーニングを積むのが王道であると思っている。文章を書く際も、自分の文章を読み込み、表現のひとつひとつを練り上げていく作業が筆力アップのための王道であると私は考えている。ただ、やみくもに量をこなすだけでは、筆力は伸びないというのが私の持論である。

だから、私は三島の主張の中で取り入れられる部分は取り入れ、病気であっても、できるだけそれをコントロールしつつ、及第点以上の文章を投稿し続ける。バイタリティのあるときは、もちろん文章を量産する。これと同時に「文章を練る」という作業も欠かさず行っていきたい。ただ、やみくもに量をこなすというのも、三島のいうような「小説(文章)に対するストイックさ」とは異なると私は思うからだ。ただ、三島の理想とする小説家像は、約半世紀以上も前のモノだから、現代にそのまま当てはめて正解かどうかはわからない。とはいえ、三島の「小説に対するストイックさ」には、今の時代にも通ずる、学ぶべきところがあると思った次第である。

*タイトル画像は、三島由紀夫著『小説読本』の表紙を筆者がカメラで撮影し、加工したモノである。

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