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【仮説#1】本が読めなくなっちゃいました……

*思いつき程度の記事で、正直言って厳密性を欠きます。まだまだ考察の余地がある話だとは思いますが、「完璧なモノが出来上がるまで人に披露しない」というわたしの「"逆"徒然草」的な悪癖が様々な面でよろしくない影響を与えていると思いまして。以下、備忘録。

みなさんは本を読むときに、「読みにくいな」とか「全然頭に入ってこないな」とか感じられた経験はございますか?

わたしは頻繁にあります。
「なぜ、わたしはこんなに文章を読むのが遅いのだろう?」
「なぜ、何回読んでも理解できないのだろう?」
本を読むたびにこういう"ストレス"に直面しています。そして、めちゃくちゃ悩んでおります。

さて、このような問題をどうすれば解決できるのか?いや、解決まで行かなくとも緩和できないものか?
そんなことを頭の中でグルグルグルグルと考えているうちに思いついたのが以下です。少しでも、わたしと同じような悩みをもっている人の参考となることを望んでおります。また、読むことが好きな人や文章を書く人なんかもこういうことを頭の片隅に置いたうえで、読み/書きできるといいのかなと考えています。本題に入ります。


本題①:イメージ◀️▶️言語の変換のしかたには2パターンある

読むとき/書くときの思考パターンは、以下の2タイプに大別されると思います。
*細かく分類すれば、もっと多くのタイプに分けられるでしょうが、話を簡単にするためにとりあえず2つに分類してみます。

【読むとき】
①言語→図像イメージに変換して読む人
②言語→言語イメージに変換して読む人

【書くとき】
①図像イメージで観念操作→言語に変換して書く人
②言語イメージで観念操作→言語に変換して書く人

この2タイプがいて、本の著者の書くタイプと読者の読むタイプが一致しているとき(①→①、②→②)、読者はその本(文章)を「読みやすい」と感じることが多いのではないか?、というのが今回わたしが立てた仮説です。

自分が文章を読むのに苦労する(読むのが遅いとか理解に苦しむ等)と思っている人は、そもそも上記のタイプが著者と一致していない可能性があります。自分がどちらのタイプなのかを認識したうえで、「著者はどっちのタイプなんだろう?」ということを意識しながら、自分に合う著者を探すといわゆる「読みやすい本」に出会うことがより簡単になるでしょう。

わたし自身は言語を図像イメージに変換して理解するタイプ(①)であると近頃自覚しました。そのため、言語イメージを概念操作して言語として出力するタイプ(②)の人が書いた文章を十分に理解することに困難を覚えます。したがって、②のタイプの人が書いた文章をどうやって読み解けばよいのかについて、具体的な説明ができません。言語的イメージを使った観念操作というのがまったくピンと来ません。

一方、①のタイプの人が書いた文章を読むに際して、理解を助けるためにやるべきことはなんとなくですが見えてきました。それは「言語を図像イメージに変換する経路を増やす(=変換するためのツールをたくさんもつ)こと」です。

例えば、表やグラフ、ベン図なんかがそのための典型的なツールでしょう。例を出してみます。

よく自己啓発書に書かれている文言ですが、
「1日1%成長すると1.01^365=37.8になり、1日1%後退すると0.99^365=0.03になる」
という表現。
これを読んだときに、わたしは頭の中で横軸に日数、縦軸に能力をとった指数関数のグラフを描いてみました。そのグラフの形(日数が経過すればするほど傾きが大きくなる)をみて「この話はおかしいな」とすぐに気づくことができました。(そもそも、大抵の物事というのは熟練すればするほど、成長が鈍化し頭打ちになっていくものですから、この話はおかしいですね)

あとは、ある記述が必要条件なのか十分条件なのかを考えるときには、頭にベン図を描きますね。たとえば、「頭が良いのと学校の勉強ができるのってちがうよね」という主張を目にしたとき、両者はたしかに完全に同じものではない(同値ではない)というのは直感的にわかりますが、その包含関係がどうなっているか、つまり、「頭が良い⇒勉強ができる」なのか「勉強ができる⇒頭が良い」なのかというのを考えるときなんかは、やはり先ほど同様、頭の中にベン図を描いてみます。結果、どうやら〈頭が良い人の集合〉は〈勉強ができる人の集合〉の中に含まれるだろうと判断できました。最初の主張は「勉強ができる⇒頭が良い」という命題が偽である、ということを言わんとしているのだとわかりました。
まあ、ここで言う「頭が良い」は「全方位的に知的能力が高い」と定義。
「勉強が"できる"」は「やればできるだけの"能力がある"」という定義とします。
その意味においては、「頭の良い人は勉強でも良い成果を上げる"能力"がある」ということがいえるわけで、これは概ね正しいといえるのかなと思います。

*そもそも、例として出した前述の主張は「頭が良い人」や「勉強ができる人」の定義が人によってバラバラであることが多いので、当然ながら、この記述のみをもとにして厳密な議論はできませんが、仮に上のように定義すれば、頭の中に図を描くことで正確に意味を理解しやすくなるのだな、ということが実感できると思います。

このように、私は文章を読むときに、上記のような「図像イメージを操作するためのツール」をしばしば頭の中に思い浮かべます。
わたしの場合、高校数学で習ったような話を思い浮かべることが多いです。あとは、最近プログラミングを勉強し始めたのですが、オブジェクト指向という考え方があることを知りました。これも「図像イメージを概念操作するためのツール」になりえると思っています。
他にもわたしが知らないだけで世の中にはこうしたツールがたくさん存在するのだろうと推測するのは決して難しくありません。
自分の頭の引き出しの中にイメージを操作するためのツールをたくさんもっておくことが、読解力(理解力)を高めるために重要なことだということに恥ずかしながら最近ようやく気づいた次第です。

本題②:読みにくい本にこそ、読者にとって価値ある要素が含まれている

あと、もうひとつ大切なことを言っておきます。それは、自分が「理解しにくい」と感じる文章にこそ、自分にとって大事ななにかが含まれている可能性が高いということです。

先述したとおり、文章の読みにくさには、本の著者と読者である自分とのイメージ◀️▶️言語変換のタイプの不一致が大きく関係しているでしょう。
これは、著者と読者の「思考のキョリ」を意味しています。要するに、「読みにくい」文章であればあるほど、著者と読者の「思考の隔たり」が大きい、ということです。これは同時に、「読みにくい」と感じる文章には、自分の思考にはない成分が含まれている可能性が高いことを意味します。
この「自分の思考にない成分」を摂取することこそが読書をする主たる意義であり、自分と似たような思考をする人の文章ばかり読んでいても得るところは少ないとわたしは思っています。

読みやすい文章は、たしかに読んでいて気持ちがいい。頭にスルスルと文章が入ってくることが快楽であると感じるように我々人間という種は設計されているようです。
しかし、これは「ああ、これこれ!これ知ってる!」「この思考パターン、私もよくするヤツだ!」というある種の(著者との思考パターンの一致を)「確認する作業」とも言い換えられます。

もちろん、著者と読者との「思考のキョリ」は、連続的に変化し、ゼロヒャク(あるなし)ではないので、同じ思考タイプの人が書いた文章でも、ある著者とは思考のキョリが1%しか離れていないが、別の著者とは20%くらい離れているということがありえます。(当然、同一著者でも作品によって「思考のキョリ」は違う)

こういう場合、前者の本は読みやすいが得るところが少なく、後者の本は前者と比べると読みにくいがキッチリ読みきった(理解できた)ときに得るところが多いといえるでしょう。すごく大雑把な話をしますが、「読みやすさ」と「読んだ(読めた)結果得られるモノの多さ」はトレードオフの関係にあると思われます。

もちろん、ここでは「本をキッチリ読みきれる(理解できる)確率」を考慮していないので、実際には、
〈読めた(理解できた)ときに得られるモノの量〉×〈読める(理解できる)確率〉
でざっくりと〈その本を読んだときに得られるモノ(知見・視座等)の期待値〉を見積もって、期待値の高い本を手にとってみるというのが、現実的な本の選び方でしょう。

本を読むことのいちばんの意義は、自分とは「遠い」位置にいる人の思考とじっくり粘り強く格闘して、その結果、その人の思考のエッセンスを獲得するというところにあるのではないでしょうか?

実は自分にとっていちばん"価値のある"本は、自分にとっていちばん"理解しにくい"本かもしれません。そして、世界でいちばん価値のある本とは、誰にもその価値を理解されず、誰にも見向きもされず、ひっそりとこの世のどこかに眠っている本かもしれません。

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