(019) 純文学の芸術性
2024年1月17日(水)第170回芥川賞と直木賞が発表されましたね。
芥川賞
九段理江『東京都同情塔』(新潮社)
直木賞
河崎秋子『ともぐい』(新潮社)
万城目学『八月の御所グラウンド』(文藝春秋)
この中で『東京都同情塔』は先月読みました。
同書についてはいずれ感想を書こうと考えていますが、今ここでは受賞作については述べません。
今回は純文学についてを覚書的に。
で、目次。
芥川賞と直木賞ってなんだ?
毎回評判になる割に芥川賞・直木賞が何なのか何となくわかるけど案外知られていない気がするんですよね。
その答えは簡単。
主催の日本文学振興会のQAにあります。
これを抜き出して箇条書きにすると以下になります。
芥川賞
雑誌に発表されている中・短編
新進作家
純文学
直木賞
単行本(長編または短編集)
新進・中堅作家
エンターテイメント作品
ここで気になるのは、直木賞のエンターテイメント作品はともかく、芥川賞が対象としている純文学。
純文学ってなんだ?
「純文学つったらアレだよねー」とそれぞれの頭の中にぼんやりイメージするものはありますよね。あまり小説を読まない、もしくはジャンルを意識していないと、過去の文豪と呼ばれる人の作品を想像するかもしれません。純文学は私小説であるという人もいるかもしれない。
よくわかないけど辛気臭くてつまらない小説と考えるかもしれん。
それぞれのイメージはともかくとして、一般的には「芸術性に重きを置いた作品」と確実に言えると思います。
なるほど。
辞書的な定義としては充分でしょう。ここで納得してもかまわないのですが、どうも体感的にわからない。
そもそも「芸術性」ってなんだよ?
って話です。
小説の芸術性は純文学のイメージと同様に人によってぼんやり認識されていると思います。
「文章や表現の美しさ」という人もいるだろうし「書かれているテーマ」という人もいるでしょう。テーマだって「人間の持つ普遍の悩み」や「今ここで書かれる意味」や「現代社会の問題」を問う人もいるかもしれません。
芸術性は、時代の変遷で変わっていく感じもします。現代の芸術性と10年前の芸術性、50年前、100年前では社会が変わってきている以上違って当然。表現技法も今と昔では変わっています。
これって何かに似ていないだろうか?
美術とのメタファー
いわゆる「アート」の世界。
西洋絵画ではここ150年くらいで、ロマン主義・写実主義ときて印象派・象徴主義、表現主義、キュビズム、シュールレアリスムなんて流れがありました。そしてデュシャンの便器そのものの「泉」を通って、今や何でもアリに見える現代アートに続いています。
表現主義あたりまではまあ理解できる気がしますが、当時斬新だったものも現代では古臭く見える。ピカソのキュビズムで理解が怪しくなって、今の現代アートは何が良いのかわからない。よくわかってないけど、みんなが良いと言っているのでいいのでしょう。
(ここもうちょっと詳しく書いた方がいいんでしょうけど、知っている前提とさせてください。いつの日かキチンと体系的に勉強してお披露目できたら)
小説における芸術性というのもまさにこれと同じことが言えているのじゃないか。
何とか主義とかなんとか派とか。
その時代もてはやされたものも評価が定まって安心して読める一方で今から見ると古い感じ。
もし当時の最高峰の技法とテーマをもった小説が現代日本に現れたとして、それなりの評価はされるにしても、芥川賞を受賞はおろか、候補にすらならないかも、なんてことを妄想したりします。
技術は進歩し、芸術性の判断基準がすっかり変わっているからです。
逆に当時理解されなかった作品の芸術性が現代に「発見」されるということもあり得ます。
どちらにしても芸術性の判断基準が昔と今では異なっていることに変わりはありません。
絵画で言い換えると、後期印象派は今なおすごく人気はありますが、そのタッチで今、上手に描いても中高生の習作程度に扱われることになります。
変わっていないことを一つあげるなら、いつの時代もそのときの「今」を書/描いてきたということ。クリエーター側の意識は「今」にあるはず。
しかし、鑑賞者は過去の作品を見ることができる故に少し時間が遅れて進んでいて、鑑賞のアップデートが追いついていない。
言いたかったことをまとめると、現代の純文学はイメージしているものと案外違っているよということです。
そして、アップデートできていないイメージが理由で読まないのはもったいということです。
尻すぼみですみません🙇
いつか再構成して描き直そうっと
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