【耄碌録】20210326 『惑わない星』を読んで、『キミスイ』に粘着する。
『惑わない星』を読んで、『キミスイ』の映画、マンガ、アニメを観た。そんな儂の読書事情。毎日同じようだが、全く同じなわけではなし。
■『惑わない星』
石川雅之の『惑わない星』(6)を読む。
前巻から半年以上空くとさすがに忘れていて、それでも、読んでるうちにおぼろげに思い出してくる。結局、これはなんの話なのか。タイトルの通り、惑星を女体化した、天体物理学なのはわかる。『もやしもん』が菌やウイルスの話でありながらホモサピのことに言及したように、結局、人類の存在の問題になっていく感じ。物理学では“観測者の問題”が避けて通れないために、当然と言えば当然。ちょっと難しい。『もやしもん』ほど受けそうで受けなさそう。儂は好きだけど。
それにしても、前から気になっていたのだが女体化されたどの惑星も他の作品でも、容姿が若干頭身が低くヒールの高い靴を履いていて、コメディ・テイストでありながら妙に顔が濃く、寸詰まり感があって、いつも笑える。かわいいけどね。
■『キミスイ』にこだわる
生来の粘着気質が出てしまって、『君の膵臓をたべたい』のマンガ、映画、アニメを観た。昨日は少し『キミスイ』ことを腐していたが、別に話が嫌いなわけではない。もしろ好きな方なんだが、小説の出来としていかがなものかと思っていたのだ。映画は論外として、マンガ、アニメの順に良かったと思う。小説というより「字で描いたマンガ」と割り切っていれば、もうちょっと気持ちよく読めたのだろう。
実は松岡正剛の『サブカルズ』の『キミスイ』記述は、ライトノベル周辺がメインで、作品そのものにはあまり踏み込んでいない。住野への希望するところが主だった。松岡も儂と同じように小説として読みきれなかったんじゃないかと想像した。
まあ、時代についていけなくなりつつある、ジジイの戯言だと思ってもらえればいいと思う。
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