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眠くならない日本史の授業のために。

「日本史の授業はとにかく眠い」とどの生徒も異口同音に言う。だからいかにして興味を惹くかということに生前の父親は絶えず格闘していたらしい。そもそもの問題は詰め込み・丸暗記、事の次第と行方は二の次三の次というニッポンの学校教育にあるわけだが、もちろん父親はそこのところはよーくわかっていた。昔も今も人の心はそう大きくは変わらない、昔を知る事は今この社会のあり様を考える事に直結するという当たり前のことを学ぶために歴史教育はある、そこをどう「自分事」に引き寄せてもらえるかかなり真剣に考えていたようだ。

政治家の汚職や世相を騒がせた事件、流行などその時々の高校生の「現在」を歴史にどう絡めていくか。どこで脱線し、どうやって生徒たちに話を振るか、これがなかなか難しいのだというのをたびたび聞いた。やはりというかいつの世でもというか、とくに芸能人のゴシップネタは食いつきがよかったらしく、そのあたりの情報収集も怠っていなかった。

家庭内の話も耳を傾けてもらうためには有用だったようで、差し障りのない範囲で、盛ったり捻ったりしながら散りばめていたようだ。息子(私の事)が高校生になると、まさに同世代ということで格好のネタとしてたびたび授業に登場させていたらしい。もちろん本人の同意はない。「琵琶法師に始まる芸能の形態がのちのちの浄瑠璃などに続く云々で、息子が熱心に弾いているギターなんかも」位ならいいが「北条高時は田楽や闘犬に現を抜かしていたといわれるが、うちの息子も勉強そっちのけで」なんて言われていたら目もあてられない。今になって一度父親の授業というものを見てみたかったと思うのだが、あの頃は自分の「セーシュン」に夢中でまったく興味もなかったのだ。当時父親が勤務していたのは女子高だったので、さらに調子に乗って尾ひれはひれを付けていたのではないかという疑念がなくもない。生徒にもらった色紙などを見ると「なぜそれを知っている」というのが散見されるのだ。「フォークソング好きの息子さんによろしく」って父上、ギターで弾くのがすべてフォークソングではありませぬ。

父親の授業がどの程度「面白かった」のかはわからない。ただ桑田佳祐が歌うように「現代史を教えない」ことに疑問を持っていた彼は、何度か時間の許す限り年度末に補講でその空白をカバーしようとした。3学期も終わりの単位にも関係ない自主講義だったが、実施された数回はいずれも満席の盛況だったようで、進学を控えた中、時間をさいて多くの生徒が聴講に来てくれることを素直に喜んでいた。


見出しのイラストは「上の森シハ」さんの作品をお借りしました。ありがとうございます。ちなみに高校時代は1970年代後半、港のヨーコを探してキャンディーズが普通の女の子になるまでの3年間です。


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