見出し画像

やっぱり温泉は露天なのだ。

大動脈解離の手術をしてからというもの、どうも保温機能が悪いようでじっとしているとすぐに体が固まってしまうので、努めて体を温めるようにしている。とはいえ、入浴は心臓への負担が大きいからと、半身浴にしなさいと言われる。効能効果は耳タコなのだが、首までどっぷりとつかっていられないので極楽極楽という気分にはなかなかなれない。

気が向けばいつでも温泉に行けた福島県育ちの両親は、山も温泉も近くにないことがこの佐倉という土地の数少ない不満だった。岩手県育ちの妻もこれには概ね同意のようだ。こちらは日常の延長線上の温泉というものはあまり考えたことはない。今は天然温泉と銘打ったアミューズメント施設がそれこそ気が向けばいつでも行けるところにあるが、あれは温泉であって温泉ではない。ガヤガヤと日常がそのまま移動してきたような賑やかさは、せいぜいファミレスのついでに風呂に入るか位のものだ。

干支も5周りするとそれなりに入った温泉も増えていく。まだ20世紀だった頃、ゴールデンウィークに信州の美ヶ原高原美術館を訪れた時のこと。標高2000m、冬期の閉鎖を終えたばかり。それにしても寒いと思っていたら雪が舞ってきた。とてもじゃないが耐えられない、タイヤチェーンを巻くような事態になる前に撤退と、松本市街に向けて車を走らせた。その下山途中にあったのが扉温泉というところ。立ち寄り湯ができるというので飛び込んだ。冷え切った体に「生き返った」と心から実感できたのはあれが随一。この扉温泉、当時露天風呂には軽石のようなものがいくつも浮いていて、受付でも気をつけるよう注意されたのだが、しっかりとお約束のように足を乗せてすってんころりん。幸い怪我もなく妻に笑われただけだった。それにしても何のための石だったか、聞いたはずなのだが覚えていない。

吉田拓郎のコンサートのために何度か投宿したのが静岡県掛川のリゾート施設「つま恋」。前乗りして施設内の温泉施設「森林の湯」で寛いでいると、ほど近くにある半野外のホールからリハーサルの音が聞こえてくることがあった。寝湯なんかにつかり次の日に思いをはせながら耳を傾けるというのは、それはそれは贅沢な時間。緑をわたってくる風も心地よい。

かけ湯をして体を洗ったら、まず露天風呂に向かう。ちょうどいい段差を見つけて場所をキープする。半身浴という縛りがあるのが残念だ。できれば誰もいないのが望ましいが、そうは簡単に一人にはなれない。しばしボーッとしているが、すぐに斜め45度上方あたりにスピーチバルーンが浮かび、あーでもないこーでもないともごもご言い出す。体は気持ち良くなっているはずなのに、案外ネガティブなことばかり浮かんでくる。それでも芯から温まると、風呂上りには「まっ、いっか」となる。老廃物を外に出すということは、そんな気分も外に排出するということか。せまーい家の風呂ではこうはならない。

見出しのイラストは「杉江慎介」さんの作品をお借りしました。ありがとうございました。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?