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西村賢太氏を思いながら、彼と全く関係ない自分の進路のことについて。(謎日記)

初めまして、不真面目医学生です。
今日は進路に関する漠然とした妄想について、遠回りしながら書きます。

先日、NHKで故西村賢太氏の特番を放送しておりました。

私も氏の激烈な来歴とそれに裏打ちされた力強い語りの文体、そして両者を存分に生かし切る「私小説」という媒体選択の妙に、数年来、虜になっておりました。

苦役列車にはじまり、やまいだれの歌、どうで死ぬ身の一踊り、夢魔去りぬ…いずれをとっても人となりや周囲の環境が激臭を伴って香り立ってきます。(氏の作品について、あまり読書に明るくない友人に説明する際、私はよく「内省的自己否定と防衛的自己肯定の乱気流」などという、随分キザな、まるで本質を見透かしたかのような格好のつかない表現ながら使って話します。この心理反応はどうやら被虐待児の心理状態の教科書的なほどの典型のようです。)

彼の成育歴について、数多くの記事がインターネット上にも存在します。
私も氏の作品を読む以前から、その詳細について報道等を通して伺っていました。

しかし、本人の語りは第三者の話をさらに電送の媒体を通して聴くそれと比較して圧倒的に質量がありました。

当人の語り口(文体)、事実に対する重要度の嵩み付け(プロット)、人称(自己認識)。
小説という媒体が、彼に起こった事件と、それに対する彼の解釈、変化をとてつもない迫真を以って伝わってきました。

「芥川賞と取った大男」は、小説を介して私の中で「西村賢太」として受肉し、友好関係を結び、迫真を以って私の哲学を変容させました。

もっとも、小説を通してであっても、氏の内面の神髄に到達することはかなわないでしょう。しかし、報道で知ることと、彼の語りを実際に聞くことでは、あまりに「肉迫」が違いすぎる。

彼の作品の鮮烈さの要因の一つに(まったく言葉を選ばず表現すれば)
「本来であれば、小説を語るような機会を得難い立場からの肉声であったこと」があげられると思います。

マイノリティたる彼らの肉声は「伝わりにくい」
本を読んだり、ましてや自己内を表現したりする発想を抱き難い。
たとえどんなに彼らが「僕らには見えない苦渋」を感じていたとしても。

少数派の声が大きい、などという随分手厳しい言説もありますが、私はこの手の表現には懐疑的です。

本当に苦しんでいる人たちの声は小さいどころか、無声である。

本当にケアの必要な人間は、ケアしたい風体さえしていない可能性もある。

(西村氏の書籍から得る結論としてはあまりに迂遠ですが)

例えば、私は以前田舎の駅前にたむろするバイカーたちとコミュニケーションを取ろうとしたとき、最初に言われた一言は
「近づいてくんな」
でした。(ごもっともだとも思いますが)

「彼らが語ることを望んでいない」可能性もありますが
「語るすべを知らない」可能性もまた等しくあると思います。

そこである目標が芽生えました。

私は、世間にある数多くの立場、特にこれまで語る主体ではなかった人たちに、言語化を促す者になりたい。それは「ケア者」としての医療従事者の立場に類する者でしょう。

例えば、周囲から聞く耳を向けられにくい、犯罪の「加害者」、例えば、日本語でのコミニケションを得意としない「外国人労働者」、自身の身に何が起こったかまだ整理のつかない事件に巻き込まれた「児童」…

近年の文壇においては、市川沙央氏のハンチバックが、これまで語られなかった障害者の主体からの物語を世間に知らしめ、かつそれが受け入れられました。

鈴木鈴美氏や佐倉まな氏の小説が、性産業の当事者の声を伝え始めました。いずれ彼女らの声は芥川賞などの、言語活動の第一線に到達することでしょう。

しかしまだまだ世間には眠った「主体」が数多くある。
それを掘り出せるような、職業に就けたら。なんて。




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