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△論

以下がGPT清書された文章です。詳しくは下部の原文を参照してください。
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△論

第一章 △の起源
人類は、マンモスを倒すために、精霊や神話などの物語を作り、協力して組織化した。これを認知革命と呼ぶ。この時、△の起源となる力が生まれた。この力によって、人類は生物の頂点に立った。そこまでは余裕だった。△の力が強かったからである。

第二章 △の変化
しかし、人類は△の力を持て余し、必要のない戦闘を始めてしまった。王たちは、兵を養うために貨幣と税金の概念を発明した。これが負債論で語られている、戦うためのマッチポンプの仕組みであった。

第三章 △の飽和
しばらくの間、△が地球を埋め尽くすまで、小競り合いが続いた。しかし、AC1800年ころ、国民国家が世界を埋め尽くし、一心不乱の大戦争を起こした。戦後、今に至る。

第四章 △の因子
悔しい、嬉しい、恥ずかしい。△は、単純な仕組みで駆動している。

第五章 △と自我
△の中で、自分を表す「・」を用意しなければならなかった。これが、自我の起源である。しかし、後に述べるが、△の弱点となっていく。

第六章 △の現在
大戦が終わり、経済戦争にも一段落がついた頃、大きな△の意義が揺らいでいる。白けていると言っていい。ただし、大△ナショナリストと小△リベラル派の諍いは続いている。

第七章 △の弊害
△に疑問を抱きながら、△に従っている状態はストレスが高く、悩みが尽きない。どこまで行っても、△からは逃れられない。

第八章 △の弱点
△を上手く回すために、・を作る必要があったが、・いわゆる自我が、△に反逆する可能性をつくってしまった。

第九章 △の代用品
スポーツやゲームは、人間の元気を維持するために、△の代用品として作られた概念だ。△は取り扱い注意の代物だが、人類は丁寧に扱っていけるようになり、いつかは手なずける日がくるといいな。

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△論 原文

❶△の起源 マンモス
昔、人類は生物の頂点ではなかった。マンモスやその他の大型獣は、人類の脅威であった。人類は言語を使い、物語を共有することで組織化していった。これが△の起源である。
人類は△陣形を組み作戦をたてて戦い、ついに生物の頂点に立ったのである。

❷△の変化 王 企業 モノ 金 🏆
頂点に立った人類は、△を持て余した。暇になったので、特に必要としない戦闘を始めてしまった。王が兵を養うために貨幣と税金の概念が発明された。
時は流れ、△が地球上を埋め尽くすまでは、緩やかな戦闘を繰り返した。そして1800年の時がながれ、ついに△が地球の地表を覆い尽くした時、国民国家という最強の△が世界をひっくり返し始めた。一心不乱の大戦争の後、今に至る。

❸△の因子 くやしい うれしい
△の中の地位が上がると「うれしい」が下がると「くやしい」という単純な仕組みで稼働している。その差分が大きければその感情も大きく感じる。

❹△と自我 ・の上下動
人類が△という概念を生み出すと同時に、その△の中で自分がどの位置にいるかを示す「・」も用意しなければならなかった。それが自我の起源である。それは後に述べるが△の弱点となっていく。
仏教でいう無我の境地というのは、つまり・と△の関係性を完全に見切ることと似ているはずである。

❺小△時代 Youtuber ダイバー
大戦が終わり、経済戦争にもひと段落ついた頃、大きな△の存在意義が揺らいでいる。価値観は多様化し、人は勝手にYoutuberになり個人で小さな△を作り満足していくようになってきている。
あまりに多様で、しかも深化しているため、人間の処理能力を大幅に超えているのが現状である。今後起きるとしたら、リベラルアーツ族とナショナリ族の戦争であると予言しておく。

❻△の弊害 鬱
鬱は自我の病気である。基本的にはTG(精神的コスト)が一定値を超えると脳はある種の防御反応を起こす。これが鬱である。
△の中にどっぷりと浸かっていればあまりTGが上がらない。しかし大きな△の存在意義が揺らいでいる現代、△に疑問を抱きながら△に従っている状態のTGは高コストになる。だからといって、自らが△を立ち上げてみると、今の時代▲は最もTGが高まるポジションなのである。

❼△の弱点 ・(自我)の発見から
△の発明は・とセットでなくてはならなかった。△の第一目標であるマンモスを倒した時が最初のチャンスだった。すこしおかしいなと感じた人も多かったはずだ。しかし人類は△陣形を組んで敵を撃滅すること楽しさに流されてしまった。大戦が終わり△の存在意義が2重に低下した今、再度チャンスが訪れている。・が△と対等もしくは凌駕するときが来ることを待ち望んでいる。

❽△の未来 国家単位の消滅など
△は役目を終えてはいるが、無くなりはしないと思う。仕組みとしては面白いものだから、弊害に注意しつつ運用していくだろう。スポーツや🏆はその一端として既に運用されている。人類は△の差分の興奮を完全に忘れることはできない。
しかし不要な△は進んで廃止することができるようになるだろう。冷静に考えて国民国家の概念要らんよね、となれば国家のフレームは消滅するだろう。

以上が△論の骨組みです( ^o^)

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