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違和へどう対処するか……日記

迂闊にも朝イチで、スマホでYouTubeのタイムラインを開いてしまい
「その違和感、会社を辞めろというサインです」というサムネイルが目に入り、今日は出勤日(午後からバイトの)だったのですごく折れた。

会社に行くのが、3倍かったるくなった(人のせいにしてる)

経験上だけど、人間のあらゆる選択に、違和がまったく生じないなどあり得ないことだ。
夢が叶ってドームツアーをやってるミュージシャンだって、己の境遇や日常に違和を感じることはあると思う。
理想のあの人と添い遂げた人だって、やはり、その人との日常に違和が全くないなどあり得ない

多分だけど、違和をまったく許容できないパーソナリティーは、その分アレルギー(や癇癪など)を起こしやすくなると思う。

だから、違和をちょっとでも感じたら、そく縁切りとかしているのは、その人の自由だとは思うけど、その分、アレルギーや癇癪に近い場所にいくと思う。

違和をごまかさない人が時代を変えてつくっていくんだとは思う。
明治の維新とかもそうだった。
しかし、違和をごまかさないで、究極のジャストフィットを求めるのは、結局「人工」(アート含む)にしか結びつかない

昭和生まれの自分は、Windowsとスマホの誕生という大革命を見てきたけど
個人意見だけど、これらの革命は多分世界の違和を増大させた(うしろ向きかもしれないけど)

もし、自分が、スティーブ・ジョブズとかビルゲイツか、または維新の志士のような器であれば、違和をごまかさず、究極を常に求め、革命を起こし続けるのも手だろう

でも、結局、それは「人工」措置なのだから終わりがなく
また、失敗が続けば、アレルギーや癇癪に結びつく場合もある。


暫定結論
「その違和、会社を辞めろというサインです!」……

いや、僕は、その甘言には(少なくとも今日は)乗らず
出勤すべきだという結論に達した。

僕のように不器用な人間は、結局、選択のほうをいくら変えてみたところで
違和を感じるようなシチュエーションを招いてしまうのだ。
違和は、必ずしも、選択の間違いとか、卒業するタイミングということではなく
単なる、僕のぶっきちょさが招いてる部分もある。
恋愛でも仕事でも、流麗な人は羨ましいほどすべてが流麗だが
ぶきっちょというのは、〇田×司夫の動画をいくら見ようと、どうにもならないことが多いのだと思う。

すべての違和を諦めるべきだとも言わない
そんな達観はムリというものだ
しかし、今日は、通勤をすることに決めた
地球の人間生活の違和を書き留めたのは、文豪の太宰治だと思うけど
違和なんて、気にしやすい人にとってはゼロにはなりはしないのだから

だとしたら、ごまかすというのもひとつの乗りきり方ではないか(状況によるけど)

(追記)
これは、主に対人現実に関係した違和です(政治レベルではなく日常レベルの)
対人現実に関係した違和は、気にしすぎるとなくならないし、なくそうとすると、他者への過剰な支配欲とか、おかしな形で現れかねません。
ただ、仕事や作業など(創作など)に関する違和は、条件の許す限りでこだわったほうがいい場合もあるのでこの限りではありません。

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