回想:引きこもりの日々(その1)
こんにちは、木月まことです。
わたしは今日ですと年齢がアラフィフにあたりまして、結構な齢なんです。
そんなわたしは20代のかなりを引きこもりとして過ごしてしまいました。
引きこもるに至った契機などの具体的かつ直接的なはなしをするつもりは、ちょっと今はないんです(というより、いまでも触れにくい部分があります)
でも、引きこもりがどんな感じだったのかをはなすのは、今日だとそんなにムリなことでもないんで、これから、また折に触れてはなしたいと思います。
まず、今日って、20代の人(いや10代の人も)とかが、アウトプットにアクティブな人が多いですよね。
インフルエンサーの方々のはなしでも、中学時代くらいからブログをやってたりは珍しくも何ともなくて、すごい多くの人が早い段階でアウトプットを当たり前にしています。
僕は70年代の生まれなんで、自分の20代は西暦で90年代とほぼ符合してますけど、意識の進んでる人はこの時代もうネットをやってたんです。
ネットの黎明期ですね。
僕はもちろん、90年代(20代)はネットノータッチで過ぎていきました。
20代の期間にネットがまったくない人生でした。
いまだとほぼあり得ませんよね。
で、いまの、非常に早いうちからアウトプットに関わってる世代を特別羨ましく思うこともありません。
ネット表現に関わることで、新しい自分を発見したり、住んでる県外にお友だちが出来たりとかプラスもあるでしょうけど、敗北と挫折感に包まれて、劣等感が肥大するケースも多いでしょうから。
まぁ、とは言え、自分は自分の20代のころににアウトプットの可能性が塞がれてたのは、平和でよかったかもしれません。
引きこもりで、向精神薬とかの類いで多少鈍麻してましたから、そんなに外の世界へ向かってはりきって主張したいことも、20代のうちは皆無だった気がします。
このようにアウトプット皆無の生活でしたが、インプット(読書)は多少やりました。
というのも絶望的にヒマなんです。(SNSやネットがなかったから)
で、これは自分の場合なんですが、自分は、自分のレベルから見て、ちょっと難しそうな本をその時期読むことが多かったです。
手元にまだ残ってるものを羅列すると…
○『晩年』太宰治著 (角川文庫)348P(ページ)
○『小林秀雄初期文芸論集』小林秀雄著 (岩波文庫)443P
○『創造的進化』ベルクソン著 (岩波文庫)458P
○『自省録』マルクス・アウレリウス著 (岩波文庫)231P
○『菊と刀』R・ベネディクト著 (教養文庫)375P
○『日本権力構造の謎(上/下)』カレル・ヴァン・ウォルフレン著 (早川書房)500P/514P
○『地下室の手記』ドストエフスキー著 (新潮文庫)216P
あと、現在手元にないんですけど、岸田秀さんの『幻想の未来』とかも読みました。
さらにあと、これも手元にないんですが、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』を読んだのも引きこもりのころだったと思います。
タイトルを眺めただけで頭が痛くなった人も多いと思います。
自分の頭脳レベルよりかなり上のものを読もうとしていた傾向があります(上から3つは、引きこもってから買い求めたものではなく、大学生のころ買って、読んでなかったものです)
ベルクソンの『進化』なんて自分にはチンプンカンプンでしたけど、端から端まで3回読みました。
太宰の『晩年』も小林秀雄の『初期文芸論集』もやはり端から端まで3回は読みました。
何故3回も?
絶望的にヒマで、なおかつ新しい本をやたらに買えなかったからです。
今の人は、引きこもりでもSNSがありますから忙しいですよね?
引きこもりの人はあんまやんないかもしれないけど、Club Houseとかもでてきて増々忙しくなってますよね。
で、量(冊数)で勝負はできませんでした。
金もなかったし、外出もそんなに自在じゃなかったんです。
というより勝負なんかをしてませんでした。
一般社会で活躍してる自分をイメージしにくかったんで、それらの読書は、のちに社会に出てどう役立てようとかいう前提が一切ないところで行われたんです。
肝心なのはある本を3回とか読んだりすることで、それらについてはいくらでも語れるほど熟達するということではないんです。
本の内容を暗記してるわけでもなく、それについていくらでもなんか語れません。
ただ、のちにアウトプットをやる段になって、この若い頃に自分のレベルよりかなり上の書物と格闘したことが、あとで実際にものを考えたり書いたりする段になって意外と利いていると思う時もあります。
上述の書物は、特に推し本というわけでもまた必読書というわけでもありません。
自分のレベルより難しい感じの本は、値段が安いほうがよいのであれば、これは(岩波文庫)が比較的たやすく見つかるでしょう。
ポイントは、難しくても、内容が理解できなくても最後まで読むということです。
あれ、引きこもりの体験談のハズが、一般読書論っぽくなってしまいましたが、
随分意識の高い引きこもりだね、って?
いやいや、ホント暇だったんで、そんなことでもやるよりなかったんです。
いまって、引きこもりの人も結構忙しいのかな、と思う時もあります。
SNS(ネット)がない時代(90年代)の引きこもりってホント暇ですよ。
もちろん実際は本を読んでる時間より、ボーっとしてた時間のほうが全然長いです。
20代の、大学生だった2年間を除いて残り8年でこれくらいは読めますよ。(記憶してる範囲内なんで、実際はもっと読んでます)
もちろん、20代がひきこもりで絶望的にヒマだったみたいな物言いは、同年代の20代から一般の職場で、顧客や上司に怒鳴られたりして、懸命に働いてた人たちにボロクソに言われる可能性があるっていうのは当然書いてる自分も分かっておりまして、そこに引け目がないわけじゃないんです。
引きこもりであった自分に自信なんかは持ちにくいです。
50代で所帯を持ってなかったりすると、ロクに苦労もしてないみたく決めつけられることも多いので苦痛ではあります。
引きこもりの経歴書なんて、不特定多数の閲覧者がいる場所へはりきって出せるものじゃ基本ないと思うんですけど。
今日はひきこもりの体験談といってもそのおかげで、自分みたいにキャパの低い人でも難しい本を読めましたみたいな、自慢話と受け取られても仕方ないプラスの側面のはなしになりました(もっとドロドロしたはなしもありますが、後日やるかどうかは今のところわかりません)
で、こういう、ちょっと難しそうな本とか読むのって何の役に立つの?
とか、何の意味があんの?って疑問も出てくると思います。
ビジネス社会で直接の数字とか目に見える結果をなるべく早く手に入れたいんであれば、僕が読んだような書物はほとんど意味がないでしょう。
直接、実利に結びつく可能性は少ないと思います。
だからSNSやブログで大ブレイクとかが当面の目標なら、これにもやはりあまり意味がない(効果がない…即効性はない)かもしれません。
また、こういったものを読めば、犯罪者に転落しないとか、自殺をしたりしないことを保証するわけでもありません。
今日の社会の最先端の問題と直接リンクしてるわけでもおそらくありません。
当時(90年代)引きこもることに敢えて利点を探せば、10人中8.5人くらいが追及していることと似たようなことをやらなくてもよかったということかもしれません。
「回想引きこもりの日々」なんてタイトルつけて、引きこもりの日々というより、読書歴の披露みたくなってしまいましたが、もっと引きこもりのドロドロしたはなしはまた機会があればその時やるかもしれません(といっても、そんな暴力・監禁みたいなはなしはありません)
最近はClub Houseの「沼」に関するはなしでもちきりのようですが、90年代に「ひま」という「沼」に浸ってしまい、絶望的「ひま」のおかげで「本」を読まざるを得なかった人のはなしでした。
御一読どうもでした。
(製作データー)
書き始め:2021年2月11日午前8時28分