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メディアの論調は、もはや小学生レベル

メディアの物言いって、多分、想像以上に人々の心理に影響を与えてると思います。

メディアの論調(言い方)が崩れたのは、「勝ち組」「負け組」みたいな物言いが猛威を振るったころからじゃないかと思います。

犯人を特定して吊るし上げようという意図では、この文はありません

多分、その標語を最初に作った人は、冗談半分だったのかもしれませんし、冗談を真に受けてしまった一般市民にも問題があると思いますが
「勝ち組」「負け組」みたいな標語は、相互扶助の否定というか、利己主義を煽ったというか……そういう側面があると思います。

確かに、このあと、SNSが誕生して、かなりの人が、とりあえず
当座の「勝ち」を短期視点で欲しがることにのめりこんでいきました。
当座の「勝ち」が実現されないと、イラつく人が増えたと思います。
また、当座の「勝ち」が実現されないと、絶望しやすくなったといえるかもしれません。

冗談半分の標語は、思った以上に深刻なエフェクトを引き越したと思います。
別に首謀者(?)を見つけて吊るし上げようという意図ではありませんが

このころから、メディアは、小学校の教室(悪い意味で)のようになってしまったと感じます。

メディアの責任は、より深い思考を促すことにあると思ってますが
「こいつは勝ちぃ~」「お前は負けぇ~」と小学生みたいにはやし立てることによって
かなりの人に、そこでそれ以上考えるのをストップさせてしまったのです。

メディアは、このあと、個人スキャンダルを吊るし上げる
「私刑」とでもいう雰囲気を作り上げました。
人々は自信を失い、他者基準で常に自己を裁くようになり
ついには、かかわりを面倒で不毛だと結論づける人が増えたのです
この「私刑」も、小学生の教室で起こってることに似ています。
「ひとりで生きたほうがよさそうだ」と考える人の増加につながりました。

いや、スキャンダル誌が存在すべきではないとまでは言いませんが
そこで行われてる吊るし上げは、一般の人の感情に符号しない部分が大きかったためか、電車のつり広告からは姿を消すようになりました。

こうした、メディアの小学生化がすすんだ時期は
日本の経済が上天井に達したころに符号しています。
バブルのころまでの人々のように働くことに精を出す人は減りました
収入(儲け)が減ったからです。
儲からなくなったからです。

かなりの人が、頑張るのをやめたころ
そのすきをつくように
メディアの小学生レベルの論調が人々のこころを支配し始めました。

「勝ち」「負け」を性急にジャッジしようとする傾向は
外国で起こった「インセル」のようなムーブメントにも共通しています。
22歳で童貞の男性が自分に絶望して、銃を乱射して自殺してしまいました。
顔写真を見た時、そんなに悲観しなければいけない印象は受けなかったのですが
「負け」は決定的であり、動かしがたいものだったのかもしれません。

YouTubeのタイムラインをスクロールしてると
「弱者男性……の(は)○○になる」みたいなサムネイルもよく見かけます
中には、「パパ活をする弱者男性」とあり、女を金で買える財力を持った人が、どうして「負け」に分類されるのか合点がいかない部分がありましたが
「弱者男性」というのも、定義がかなり曖昧です。
たとえばですが、野球の日本人大リーガーは強者でしょうが
そんなのは、運とかも関係しています。
もし、その大リーガーが江戸時代に生まれてたら、単なる力持ちの農民にすぎなかったかもしれませんし
野球が盛んでなく、サッカーとかが盛んな国に生まれてれば
あんまり活躍の余地はなかったかもしれないのです。
もちろん、努力はしたと思います。
でも、社会で手に入る結果は、このようにかなり運も関係しています。
それを、単純に今日の地位や財産から「弱者」「強者」と分類するのは
マスコミとかによくいる、学歴のいいニヒリストみたいな人を爽快にさせるかもしれませんが
インセルを始めとする、おかしな絶望につながってしまいかねません

はなしが、悪い意味で小学校の教室レベルです。

でも、そんなのをどうにかできるなんていうのも間違ってるのではないか?
と聞かれれば、正直よくわからない部分もあります。

定義がそもそも曖昧な「弱者男性」とか「勝ち組」みたいな言葉の流行に腹などを立ててみても
そういう言葉は、一人歩きするものなのかもしれません。

「ライオン」というカテゴリーを発明した瞬間、人類はライオンに勝利したみたいなはなしを聞いたことがありますが
「ライオン」だけでなく「弱者男性」とか「勝ち組」とか、定義の曖昧なカテゴリーを次から次へとつくるのは、人間が安心をしたいからなのかもしれませんが
特定の目の前にいる個人ではなく
「弱者男性」とか「障害者」とか「生活保護受給者」とか、ある人の状態を一般化する抽象語は、それを一般論として語るとき、おおむねロクなことはない気がします。
たとえば、「障害者」をひとりの個人としてではなく
集合名詞のカテゴリーとして論じると、かなりの確率で
侮蔑と敵愾心を煽ることのほうが多い気がします

いや、ちょっとはなしがそれてしまいましたが
経済が上天井に達して、戦後昭和ほどあくせくする必要がなくなった、あるいは、あくせくしても結果にはつながらなくなった日本では
メディアの論調は、悪い意味で小学生レベルの何かになり下がってしまったのではというのが、今日の文章でした

御一読ありがとうございました。

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