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フツーの人は究める必要などない

「究める」と聞いてどんなことを思い浮かべるでしょうか?

いえ、僕は、楽器(ギター)にせよ、英語にせよ、中国語にせよ、大抵のことは究めたりしませんでした。

だから、究めてるような人にどこかコンプレックスがあったのかもしれません。

究めてる人って、将棋の藤井翔太のような人でしょうか?

剣術とかには流派があって
マンガですが、飛天御剣流(『るろうに剣心』)とかありました。

究めた人は、有用な人材として、社会からひっぱりだこです。

しかし、よく考えると、社会にひっぱりだこになりたかったわけでもない

それがフツーの人です。


人生って、ある流れなのかもしれません。

「究める」のは一部の天才たちであって
あとの人は、ただ流れていくのではないか?

うちの父は2018年に74歳で亡くなりました。
2019年には、地球に肉体がなかったです。

父は1943年生まれですので、そこから2018年までの歳月を流れていったのだと
こんなかたちで、すべての人はいずれ、地上から撤退(?)を余儀なくされます。

そこまでは、ただ流れであって
「究める」もクソもない

ただ、その流れの中で、折々にある選択が浮上します。

30歳以上の人ならわかるかもしれません。

現在、彼女や彼氏がいない人でも
その歳月で、運命は、いくつかの選択を放り投げてきます。

「この人はどうですか?」
「ならばこの人はどうですか?」

それに対して、わたしたちは、大まかに、「乗るか」「乗らないか」の2つがあります。

経験や準備や自信がないからとか、その選択はいまいちだからとかいう理由で、乗らないこともできるのです。
家族の面倒を見なければいけないとか、身体の調子がいまいちだからとか
何となく気が乗らないから、という理由で見送ることもできます。

「究めて」世間に認められれば、他のこともスムーズかは一概に言えません

歳月は諸々のことを容赦なく変えていきます
また、反面歳月とかでは容易に変わらないこともあります。

こんなかたちで、歳月はただ流れていくのだと思います。

ただ、折々の選択場面で乗るか乗らないか

もちろん、個人の自由です(今日の自由主義社会では)

だれも失敗したくないし
だれもこっぴどい目に遭いたくありません。
なので、消極的な人が増えましたね。

日本では、出生率も婚姻率も下がって、相当な人口減の予想もあります

天才を除けば「究める」必要はないし
「究めたり」してる時間もないのかもしれません。

そんなことを考えました。

『フツーの人は究める必要などない』でした。

ご一読ありがとうございました。

なるほど!とか思われましたら
是非気軽にスキ💛を押してくださいね。

(あとがき)
ヘッダーは学生のころ神奈川県のH野市で何気にシャッターを押したものです。
写真(カメラ)も究める気なんかは残念ながらないようです。

(おまけ)
この文の要約(レジュメ)を作ってみました。
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