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否定の理屈は無数に存在する─やりたいことをめざすわけ

多分、ある瞬間の個人の在り方ややり方を否定する理屈は無数に存在する。

確かに、10人中9人がなんとなく選んでしまうものにロクなものはないとも
いえるから、人の選択には、しばし物言いがつく。

資本主義社会というのは、法に触れることをしない限り
どんな選択も許容されるといってよい(環境を大々的に破壊するとかはダメだけど)
無数のアイデアと選択が生まれる。

資本主義社会は発達すればするほど、生存にバイタルなものから遊離する。

そもそも生存にバイタルでないものに対しては、否定の余地が無数にある。

ある瞬間のある人の選択には、必ず否定の契機が存在する

成長が終わった経済のフェイズでは、足の引っ張り合いと潰しあいが増加する。
公安が宗教団体や野党の足を引っ張ってるとか、そういうのが無数に増える。

成長が終わったフェイズでは、お互いの否定がどうしても増えるのだ。

誰かの矛先が、自分に向かないためには、せめてもの方策として
GOOD MANNERをこころがけることだ。
百貨店の店員なみの感じのよさを身に着ける

しかし、成長フェイズでは、比較的多くの人にチャンスがあるが
成長が終わったフィエズでは、チャンスがあるのは、比較的恵まれた生まれの人に限定されてくる

そうすると、百貨店の店員なみのGOOD MANNERも功を奏さない

経済社会であらゆる努力が、どこかから否定の矛先が向いて
その都度腰を折られてばかりいると
人は生産的態度がバカバカしくなってくる。

だからといって、犯罪者にならなかったとしても……

こうして、人は
「どうやら自分には成功とやらの余地はなさそうだ」とか
「結婚とか所帯を持つのはムリそうだ」とかいったことが見えてきた人々は、せめてもの方策として
犯罪をはやらなかったとしても
好きなことややりたいことへ走るだろう。
つまり、中2へ戻るのだ。


結果にはつながらない、社会義務や労働など、懲役に近いだろう

こうすると、人々は懲役から逃れることばかりを考えるようになり
その逃避先が、ホストだったり、SNSだったり、サブカルチャーだったり、ポルノや風俗だったり、趣味だったりするわけだ

いや、それらのものへの依存自体は、スタンスによっては病的ではないのだが
逃避の程度と状況によっては、病的だ。

それらのものへの依存は、結局「金」がなければどうしようもないではないか?

たしかに、SNSはタダで見れるかもしれないが、あとのものは、そこそこの金がかかる場合も多い

聞くところでは、ホストに入れ込んでる女子は、カネが足りなくて身体を売っている

余計なもので成り立ってる、あるいは、余計なものがどんどん膨らんでる資本主義社会では、その活動や選択を否定する契機は無数にある。

相互が、いちいちの活動に、いちいち腰を折りあってる状況では
やりたいこと、好きなことに逃避先を求めるのは自然なことだ

しかし、うまくいかない個人が、たまたま目についた個人(しばしば、毎日顔を合わせてる家族など)の腰を折るべく否定するのも仕方がないことだ

世の中には「自分はうまくってない」と感じてる個人が7割くらいだと思われるので、仕方のないことかもしれない

一般労働は、義務でしかないもの、あるいは、懲役に似たニュアンスになり下がってしまった。

こうすると、苦痛を感じた個人は、逃避先を求めるのだ

それが、殺人や自殺などの極端なものではないことを祈るばかりだが

まとめると
ある瞬間の個人の在り方ややり方には否定の契機が必ず存在する
(そもそも、人間の営為や存在は、それほど合理的でも合目的的でもない)
      ⇩
不満を感じてる個人は、たまたま目についた人(家族など)を否定し
潰しあい、足を引っ張りあう
      ⇩
ストレスに感じた個人は、逃避先(ホスト、SNS、趣味、やりたいこと、好きなこと)へ逃げ込む

これらは、経済が成長を終わったフェイズに、より顕在化すると思われます。

(あとがき)
今日は、社会科学的なアプローチ(観点)から、成長が終わった経済社会における、個人否定と逃避のメカニズムを考えてみました。

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