最初に正解を求めるのはどうか?
学校教育を長く受けてると最初に正解を探そうとするのが第二の天性というか習慣になる。
学科の問題集は8割以上正答だと確かに気持ちがいい。
また誤った選択の上になされた努力は花開かないということもたまに聞く。
そうでないとはいえない。
しかし最初にドンピシャ正解が定まりその上をひたすら進んでゆくなどということは実際どのくらいあるのだろう?
最初に正解を探そうとすると、わたしたちは、それが正解か不正解かばかりを気にして怯えるようになる。
これは多分学校教育の大きな弊害のひとつだろう。
もちろん人命を左右するような決定や国会の政策決定などは慎重に検討されるべきだろう。しかしそうではないもっと小さな人生の選択局面で慎重になりすぎて前へ進めなくなっている人が多いようだ。
そこでは多分、正解・不正解より大事な試行錯誤ということが忘れられている。
正解自体にクリエイティブがあるというより、正解を追求しようとする、あるいは道を切り開こうとする試行錯誤の過程の中にこそクリエイティブの源泉はあるのだろう。
そうするとクリエイティブとは、ひたすら止むことのない試行錯誤と同義なのだろう。
ひたすら続く試行錯誤…それがクリエイティブなのだろう。
そうするとクリエイティブな人生は、時に微妙に、時に大きく変化していくものである。
わたしたちは正解・不正解のジャッジを気にしすぎて動けなくなっている。
就活自殺とかも、学生が正解・不正解のジャッジの全権を営利企業にすぎない組織が全部握ってると錯覚したことと関係してる。
でも大学へ行くような学生の多くは裕福な家庭の生まれが多いだろうから、卒業してもその金銭物資生活の質は落としたくないし、大卒であるということと関係した見栄もあるから、かえってより大きく企業などの組織に依存しようとする。
こうした学生の錯覚をむしろ上手く利用しようとするおじさんたち(実年齢的にはこれを書いてるわたしもオッサンに分類される年齢である)に新卒の学生が自分から進んで積極的にその支配下に組み込まれるとより事態は面倒になる。
いや、少しはなしが脱線しました。
就活学生と組織のオッサンとの危険な関係についてのはなしではなく、止むことのない試行錯誤こそがクリエイティブであり、それは最初に正解を探してから動こうとするより大事なんじゃないかというはなしです。
(あとがき)
本文は以上で終わりですが、もし、なるほどと思われましたなら、気軽にスキ💛を押してみてくださいね。
読んでくださってありがとうございました。