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ぱっと見でわからない障害を抱えた器で生きている人の埋み火 ~「半分青い」の耳の話とがんサバイバー~

2018年上半期のNHK連続テレビ小説「半分青い」が大好きだった。完全に私の時代(主人公と1歳違い)なので、主人公がどんな人生を歩むのか、時代の描き方はどうだろうとか不安と期待でパツパツになりながら夢中で見たし、気になった回は録画して残したほどだった。朝の連ドラで現代ものは成立しにくいというか、共感できないというか…難しいものが多かったけれど、2013年上半期の「あまちゃん」がその壁を突破したと思う。とはいえ、どんな作品にも賛否両論はあるし、好き嫌いは人それぞれだ。で、ドラマの感想は書かないけれど、私は刺さったけど批判の大きかった主人公の耳の障害について。

自分も周りも未経験ゾーンならポジティブになりがち

主人公の楡野鈴愛は、小学生の時に病気で片耳が聞こえなくなる。後天的な障害をおったのだ。健常な時の記憶はしっかりある状態でだった。それが「半分青い」というタイトルにもなっているのだけれど、失聴したときもその後も深く落ち込んだり悲しむ様子を見せずに成長していくように見える。小学生でもその障害を悔やみ悲しむ家族や友人に気を使うし、自分はもちろん未知の経験を重ねていくだけなのだから、どうしてよいのかもわからず、とにかくポジティブであろうとしたのだろう。無意識にでも。自分も周りも未経験の事柄にはポジティブにあろう(あらねばならぬ)という意識になる人はけっこういると思う。

そして成長する間に数々の試練や悲劇に出会うわけだけれども、その度に「わたしの左耳が聞こえないから?」という言葉が鈴愛の口をついて出る。特に東京に出てからあまり片耳失聴のことは大きく描かれなくなっていくので、最初にこのシーンが出た時は戸惑った視聴者が多かったと思う。私も「え?今になって?」と思ったし、Twitterでもそんな感想がけっこう見られた。けれどその「え?今になって?」に私は深くうなずいた。

水蒸気爆発と思ってたらマグマも出ちゃった

後天的におった障害だとか不具合だとかは、どんなに自分が納得したと思っていても、乗り越えたと思っていても「本当はこうじゃなかった」という思いがくすぶっている。その埋み火のような悲しみや怒りは、自分でも気づいていなかったりする。気づいていてもなんとかして外に出ないように抑えている。それが危機的な状況になってぽろりとこぼれ出たり、ぶわっと噴出してしまうことがある。自分が出したつもりでなくても周りに見えてしまうこともあるだろう。火山で言えば水蒸気爆発のつもりがマグマ水蒸気爆発だったようなものだ。そりゃ周囲の人、ましてや視聴者には「なんでここで?」になるだろう。

本人にとってはそれほど危機的な状況にいて、出すつもりはなかったのにマグマになって飛び出しちゃったんだというぐらい、奥底で埋み火として常に渦巻いていたのだ。もし、このドラマが鈴愛の障害に焦点をあてたものだったら、いろんなライフイベントやら出来事やらごとに障害を指摘されたり、不利益を被ったりして憤ったり悲しんだりするものになったと思う。でも、このドラマの主眼はそこではなかった(と思う)。かといって片耳失聴は弁当のバランのような彩りではなく、ちゃんとしたコンテンツだった。鈴愛はもとから個性的な子だけれど、それに加えて埋み火を抱えていたということ。

埋み火(うずみび)はいつも燃えていた

この埋み火はマグマに成長することもあり、きっかけがあれば爆発する。私自身も手術からの12年の間、なんどもそのきっかけがあったし、爆発もした。自分では埋み火にもマグマにも気づいていなかったし、マグマになっているとは―ある時期までは―思っていなかった。

未知の経験であり絶対に避けられなかった5年間の治療中は、マグマが見えていてもかまわなかった。それでもいろんな体調不良が「これもガンのせいか」「これはガンが悪くなる兆候では」といちいち、いちいち結びつけずにおれなかった。もちろんホルモン治療による更年期障害状態などは、知識さえあればガン治療のせいだからと開き直れたのだろうけれど…。

体がぱっと見ではわからない障害を抱えた器になった

5年の治療が終わってから、つまり健康を取り戻し始めた頃からマグマは埋み火になって、奥底にしまいこまれた。しまっておいたのに急に蓋を開けられることがあって、例えば、1年に1回となった定期健診の度にぞわぞわとガンの恐怖と治療中の苦しさを思い出し、さらに不安に苛まれること。
歯科検診で舌にふつうの口内炎ではない炎症が見つかり、「病歴上、念のために」と舌ガンの検査を受けるはめになったこと。急成長したほくろが不安で総合病院の皮膚科に駆け込んでしまったこと。
不調や病気で病院に行くたびに病歴を説明しなければならず、そのために健常な人とは違うメニューになること。その度にガンの主治医と連絡をとって許可やら何やら教えてもらわないといけないこと。
有名人がガンになった、そしてその経過をテレビなどで見てしまうこと。さらにそのことについて健常な人たちの意見とか感想を聞かされること。
人生の岐路に立った時、選択しなければいけない時に「やっぱりガンをやったからかなあ」と思わざるを得ないこと。また、人にもそう言われてしまうことと、実際そうであること……。

反対に「無かったこと」にされることも。そりゃもう元気になっているのだから、告知された時、手術の前後、治療中を知っている人たちだって忘れてしまうだろう。もしかしたら、その当時から重要事項と認識してなかったのかもしれないし。ましてや当たり前の健康不安や体調不良がガンにつながっていたり、何かにつけちくちくと不安や怒り、悲しみに苛まれていることなど……気付かないだろうし、伝えたとしても「そんなことないんじゃない?」「大げさだよ」と帰ってくるのが関の山だった。自分では障害を抱えているようにと思っているのに。

そうして埋み火に風が送られて火勢が強くなる。自分でも気付かないうちに、だんだんマグマになってゆく。ある日、ふつうに爆発したつもりが、マグマが噴出してしまうのだ。

「わたしの左耳が聞こえないから?」
「やっぱりガンをやったから?」

タフな道を独りで行かなきゃいけないのか

鈴愛が失聴したことは取り消せないし、たぶん彼女も聴力を取り戻そうとは思わないだろう。“半分”で生きてきてからこそ、今のわたしがあるのだし。けれど軽微であっても障害や不調を抱えて、それを個性として生きていくのは、時にしんどい。タフな道だ。健常な人が整備されたグラウンドでバレーボールをしているのだとしたら、鈴愛たちは砂浜で同じルールのバレーボールをしているようなものなのだ。気付く人はほとんどいないし、グラウンドでやっているはずだと、本人も思いこむから。

もし、砂浜で足を取られながら必死でボールに食らいついていることに気が付く人がいたら、そっと寄り添ってほしいなと思ったりする。それをごく自然にわかっていたのが律なのだ。幼なじみとか親友とか恋人とかにカテゴライズできない、“半分”。一心異体とでもいうのかな。いいなーいいなー。私もそういう人がほしいよ…(;´Д‘) と、急に律ロスが昂ぶる
が、やはり独りで行かねばならない。

犀の角のようにただ独り歩め。

その独りはLonelinessではなくSolitudeだ。障害を抱えた器は、そうは見えない。見えない、わかってもらえないさみしさはLonelinessだ。けれど、その変わりようのなさ、障害を得る前と後の違いを知って、他とは違う自分であることを自覚するのはSolitudeだ。さみしくもなく、惨めでもない。これが私の器だから。

※余談ですけど、トップ画像のために炭火で写真を検索したら9割を焼き肉、鰻、バーベキューが占めてるんです…違うそうじゃない…おいしそう…

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