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【読書】川上 未映子著『夏物語』

芥川賞受賞作『乳と卵』の登場人物たちが新たに織りなす物語、とcakesで掲載された第一部を読んでいて、ああ続きを読みたいな…と思いながら忘れて、またふと思い出して読みました。しかし、『乳と卵』を読んでいないのでちょっと座りが悪いかも。

『乳と卵』の評判はなんとなく気になっていて、その気になったら読むかぐらいで何年も過ぎてしまった。『夏物語』はcakesで実際に文字を目にしたから読まざるを得なかった…みたいなところがある。評判とか売れ行きはBGMのようで聞き流してしまうが、活字が目に飛び込むとやはりパワーが違うのだろうか。

方言のサウンドイメージ

そのパワーの源は、登場人物が話すコッテコテの大阪弁かもしれない。私は関西人なので、文字であってもこの大阪弁がだいたい脳内再生できるのはラッキーだ。本やら文字情報を読む時、私は頭の中で音読してないタイプでたぶん画像認識みたいに読んでいる(と思う)。けれど、書かれている方言が触れたことがあれば抑揚やリズム、間みたいなものが再生できて「見える」ような気がする。ああ、外国語もこんな風に再生できればいいのになあと、ちょっと思う。私は英語だけちょっとできるけれど、アメリカの作品をアメリカ英語で、イギリスならイギリス英語でとか、それぞれの(聞けば「ああ、あれ」とわかるなまりで)読めたら印象がずいぶん変わるんだろうなあ…だから映画やテレビ作品はありがたかったりする。

引力に抗う、は苦しくて

そんなもんで、『夏物語』のコテコテ大阪弁がかなり直球で目に飛び込んできたのが読みたくなったいちばんの引力だったかもしれない。でも、内容もまた引力がある。

姉・巻子がなぜか突然、豊胸に取り憑かれる。結局、その理由はわからないようなのだけれども、その年齢や生い立ち、生活環境がどんなにつぶさに描かれても、よく姉のことを知っているはずの妹でもわからないのだ。もちろん、娘にはとんとわからない。わかりたいと切なく願っても、わからない。おそらく、本人にもわからない。

似たようなわからない引力が主人公の夏子にも働いて、それは妊娠・出産だ。「理論的には可能」だけれども、まったく必要がなかったこと。あるいは忌避してきたことにどうしようもなく引き寄せられ、離れられない。忌避しているものというのは、それ自体が引力を帯びているということなのだろうか。

引力に、どうしようもなく引き寄せられてしまうこと。
なんとかして引力に抗うこと。
引力はどこから来て、なぜ私を引きつけるのかと考えること。
なんの考えもなく引力に沿っていくこと。

それぞれに苦しく、正解もなければ誤りもない。惑星のように規則正しく周回するか、彗星のように変な軌道で長い時間をかけて、その間に引力のことなんか忘れているかのように周回するか。抗ったとしても、そのくらいの違いしかないのかもしれない。

乳と子の引力とがん

私もある時期、狂おしいほど豊胸したいと思ったことがある。正確には乳がんの温存手術で半分ほどになった片方の乳房を再建したいと思った。手術から10年が経って、経過観察も終わろうという頃になって、だ。年齢は巻子より少々上で、誰かに言われたとか大きなきっかけがあったわけでもない…と思うが、もしかしたら蓄積していたのかもしれない。私が乳がんの治療を始めた頃は乳房再建はまだ保険適用になっておらず、主治医に勧められたことすらなかった。「元のカラダを残すこと」のほうが優位な雰囲気だったように思う。

けれども10年経つ頃には保険適用になったことや、私と同程度のステージの人が全摘して安心しながら再建で外見も満足みたいな情報も入るようになったし、10年生存を果たしたという安堵があったのか、急に乳房再建が頭を占めるようになった。すぐに主治医に聞くなり、取り扱う形成外科を受診してみればいいのだが、私は「あなたにはできません」という否定を極度に恐れていて、恐れれば恐れるほど引力は強くなっていった。費用や入院日数、痛い期間などを考え合わせて引力に抗うのだが、なんといっても苦しい。
別に片乳が半分の大きさだからといって今までにそんな苦労をしたか?
と思うと、そんなでもなかったようにも思うし。でも、そう思わないように努めてきたのかもしれないし。果てしない自問自答を繰り返して、最後には主治医に相談したけれど、やはり「しないほうがいい」と言われて、結局は主治医というパワーがこの引力から引っぺがしたのだった。

妊娠・出産も似たようなことがあった。私はごく若い頃から子どもは欲しくない考えの持ち主だったし、がんになった時にはこれで公に妊娠・出産は難しくなり、子どもの有無を問われた時にりっぱな理由ができたので「やれやれ、ありがとう」と思った節がある。私が(運が良ければ)妊娠できるようになるのは40歳近くの見込みだったから、まあもう考えずに済むというわけだ。

いま、若いがん患者(AYA世代のがん患者)について男女ともに妊孕性の大切さとその支援が手厚くなりつつある。人生に「当たり前にあったかもしれない機会」を病気によって失うことの大きさ、それを医学や制度でサポートできるということは非常に大切なことだ。「あったかもしれない」は「なかったかもしれない」と常に表裏一体なのだけれど、両面とも存在すればこそである。

私自身はもとから片面で考えており、病気で片面が強固になったのだが治療を終えて当たり前の健康に近づいてくると、もう片面がやはりチラチラしてくる。まるで引力が発生したかのようにもう片面がくっついて表裏が出てきてしまった。その引力に戸惑い焦りながら周りを見渡し、同じ年頃で出産する人もいれば育児に苦労する親も幸せな親もあり、苦労する子も幸せな子もあり…引力のある世界で風景が違って見えてきた頃に更年期となり閉経して、私はまた片面の静かな世界に戻った。

引力は、欲とは違う不思議なものだ。○○したいというストレートな方向性ではなく、抗うことが前提でどこからか発生しているけれど、あってしかるべきようなもの――「あはれ」のようなものかもしれない。

『夏物語』で巻子は豊胸手術をせず、夏子は色んな人の片面やその引力に触れながら子をなす。「あったかもしれない」は「なかったかもしれない」し、あってもなくても流れゆく。
片面の世界は静かでいられても、流れてもいないのかもしれない。


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