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アンノウン・デスティニィ 第5話「特別任務・イレギュラー」

第1話は、こちらから、どうぞ。

第5話:特別任務・イレギュラー

【2034年8月10日、東京・永田町・内閣官房内閣情報調査室】
 東京は連日猛暑日の記録を更新し続けていた。東京メトロの国会議事堂前駅から地上にあがっただけで重たい熱気にとらわれ、一瞬、息をするのも苦しくなる。熱風の海底を歩くような感覚だ。少しでも日陰を選びながら記者会館の角を曲がる。いたぶるように照りつける陽射しに数メートル歩いただけで首筋にたちまち汗がにじむ。それをアスカは手の甲でぬぐう。
「なんでおまえをご指名かわかんねえけど、長塚大臣が同席してる可能性もあるらしい。森山たか子とは印象を変えていけよ」山際からの指示だ。
 きょうは黒のカラコンは装着していない。代わりに縁なし眼鏡をかけ、肩までの黒髪のストレートボブ。ぎらつく太陽を鳶色の瞳でにらみつける。きっとボスは今ごろウッドデッキで、上半身裸になってアイスでも齧っているんだろうと思うと、ほんとむかつく。
 アスカは内閣情報調査室、略して内調ないちょうに呼びだされていた。政府の情報機関である内調はアスカたちのような諜報員には親玉みたいな政府機関だ。内調がらみの仕事はそこそこある。山際の昔の知り合いが現役の調査官らしいが、それだけではないだろう。山際自身がかつて内調の調査官だったんじゃないかとアスカは思っている。一般のクライアントからの依頼案件にも内調がらみのものが一定数含まれているのではないだろうか。
 冷房の効いた庁舎に入って、やっと正常な呼吸をとりもどす。
 通されたのが内閣情報官室だったのには驚いた。
 仕事柄まず部屋の上部をさりげなくチェックする。それほど広くない部屋に監視カメラが3台か。中央にひとつ。入り口左隅天井と対角線の右奥に一台ずつ。死角がない。さすが日本版CIAといわれる組織のトップの部屋だ。
 カメラの位置を確認し終えたところで、この部屋のあるじと目が合った。
 内調のトップ、内閣情報官上田総一郎だ。
 執務机から立ちあがる。背はそれほど高くない。太ってもいない。40代後半ぐらいか。爽やかな笑顔を浮かべていたが、座っているだけで他を圧する威圧感があった。獲物を狙う鷹の目だと思った。目だけが笑っていない。柔和さを装ってはいるが、底知れない不気味さがあった。猛暑日だというのに三つ揃えのスーツを着ていた。すっと背骨の伸びた美しい姿勢。おそらくホルスターをつけているのだろう。左脇がいくぶん浮いている。不穏な動きをすれば、あれでズドンだろうな。
 執務机の前、部屋の中央に据えられた黒の革張りのソファには2か月前に至近距離で拝んだ顔がふんぞりかえっていた。血色もまずまず。毒の後遺症はないようだ。アスカはほっと息をもらす。
「紹介しよう。長塚厚生労働大臣だ」
「山際調査事務所の鳴海アスカです」
 アスカが頭を下げても、長塚は立ち上がりもしない。でっぷりとした腹を誇示するように座ったままアスカをめあげる。
「掛けなさい」
 アスカをうながし、上田は長塚の隣に腰をおろす。アスカは向かいに浅く腰かける。
 現職閣僚とインテリジェンスのトップ。国の中枢にいる二人が、あたしになんの用があるのか。おまけに長塚は病みあがりだ。通常、仕事の依頼は山際調査事務所に入る。内容に応じて山際がアスカかシンにわりふる。あるいはチームで取り組む。アスカ個人が名指しされることなどない。
「優秀なスパイ、だそうだな」
 長塚が鷹揚に問いながらも、見下した興味がその表情に見え隠れする。世襲三世議員にして自政党最大派閥の領袖。彼からすれば、自分の手足になるただの駒、利用価値があれば利用するだけだ。
「おそれながら」とアスカが長塚に顔を向ける。
「仮にも私が大臣のおっしゃるスパイならば、こうして人前に姿を晒すことなどありえません。私の仕事は内調職員の方々の業務とたいした変わりはないと思います」
「そうかね、まあ、いい。さっさと話を進めてくれ」
 ハエでも払うように手を振り、上田をうながす。
「先生はお忙しい。さっそく本題に入る。これから話す内容は国家の機密事項であると心得てもらおう」
 上田は監視カメラの電源を切る。職員にも秘匿ということか。カメラが確実に動きを止めるのを確認すると、前かがみでアスカを見据える。
「少子化阻止特別措置法は知っているね」
 アスカは2か月前のパーティーを思い出す。いかに国家の危機を救う法案であるかについて、長塚が口角泡をとばしてその意義を力説していた。あの法案がらみか。ようやく長塚の臨席に納得がいく。反対派を黙らせろとでもいうのだろうか。
「法案は次の通常国会に提出される。先の参院選で与党がかろうじて勝利したので、ねじれ国会は解消された。来年春の参院本会議で可決されるだろう」
「そこで、だ」
 上田はA4の資料をアスカの前にすべらす。
「プロジェクトX……優性卵プロジェクト? なんですか、これ」
 怪訝な視線を上田と長塚に投げかける。
「まあ、読んでみなさい」
 上田にうながされ、表紙をめくる。
 少子化阻止特別措置法の表向きの意義は、少子化に歯止めをかけることだ。そこにもうひとつ裏の目論見が秘されている。
 ひと言でいえば、ひと握りの天才の遺伝子を意図的に掛け合わせようというのが「優性卵プロジェクト」の骨子。クローン技術も遺伝子組み換えも、人に施すことは生命倫理の観点から禁止されている。選別された卵子と精子を掛け合わせるが、遺伝子操作は行わない。遺伝子がどう発現するかは受精卵にゆだねるという、倫理のすきまをついたアイデアといえる。とはいっても、大々的に実施しては批判を浴びることは目に見えている。だから、少子化阻止特別措置法を隠れ蓑とし、秘密裏に実行するのか。
 少子化阻止特別措置法では提供された卵子と精子はランダムに受精されることになっている。プロジェクトによる優性卵をこっそりとひそませても疑いをだくものはまずいない。偶然の産物とみなされる。あるいは法案による成功の果実とみなされるかもしれない。同法案では卵子と精子の提供年齢を18歳と20歳に限定しているが、優性卵プロジェクトでは年齢を限定しない。才能が18歳以下で開花しているとは限らないからだ。優秀な才能と才能をかけあわせ相乗効果を期待する。スーパーマンを人為的につくろうということか。日比谷のデモ行進のプラカードに「人工人間を作るのか!」というのがあったが。国を挙げて人工的に受精卵を培養するのだから、優秀な遺伝子の可能性も探っておこうという、ついでくらいの理屈なのだろう。命を数やモノとしてしかみていない。政治家の感覚にめまいがしそうだ。
 アスカはようやく自分がこの場に呼ばれた理由にあたりがついた。選定された被験者からの卵子や精子採取を円滑に進めるために、毒針で眠らせろというのだろう。こんなプロジェクト、おいそれと被験者になることを同意するわけがない。そういうことか、とひとり納得していたときだ。
「君がこのプロジェクトの第1号被験者に選ばれた」
「え?」
 聞き違えたのかと思った。
「なぜ……なぜ私が」
「理由は二点」
 上田の話し方は論理的で無駄がない。
「このプロジェクトは公にされることはない。国家の極秘プロジェクトだ。失敗は許されても、漏洩は許されない。確実に機密が担保できること。それが絶対条件だ。君は我われの信頼に値する」
 まあ、そうね。政府機関の下請けだもの。
「もう一点は、君の調査員としての資質だ。現場に応じた冷静で的確な判断と柔軟な応用力。すぐれた身体能力。それらの特筆すべき資質が、まったく方向性の異なる精子の資質と掛け合わされるとどう発現するか。君が第1号被験者たる理由は以上だ」
(いやいやいや。ものすごく論理的な言葉を散りばめているけど、なかみはからっぽ。政治家の言葉と同じじゃない。あたしに他人よりも誇れるところがあるとすれば、毒の知識とその実践でしょうが)
 アスカはちらっと長塚大臣を見る。
(まあ、それを、ターゲットにされた本人の前でつまびらかにすることができないのはわかるけど……うん? ということは、パーティーで長塚大臣が倒れたのはあたしの工作だったと上田情報官は知ってるってこと?)
 アスカは上田に視線を据える。上田は表情を崩さずに視線をわずかにそらせる。
(ふーん、参院選のあいだ長塚大臣をおとなしくさせろっていう依頼は内調がらみだったのか。直接の依頼人がだれかはわからないけど。派閥争いとか、どうせそのあたりのしょうもない理由ね。依頼人が内調に指示し、内調は山際調査事務所に丸投げした。で、ひと月眠らせたのがあたしだと上田情報官は知ってる)
 沈黙が続いた。アスカが資料をめくる音だけが響く。それにしびれを切らせたのだろうか。
「森山たか子もリストに挙がっとったんだ。それを……。あれだけお膳立てして面倒みてやったのに、土壇場で参院選立候補を断るだと。俺の顔に泥を塗りやがった」
 長塚が怒りをあらわにぼやく。
 森山はアスカによる工作のあとすぐに、立候補を断ったときく。そのころ大臣は意識不明の長い睡眠をむさぼっていた。あたしの毒の効果で。
 そういうことか。あたしはたぶんリストの下のほうに名前がぶら下がっていたにすぎない。けれど、本命の森山がこけたことで慎重になった関係者が漏洩の恐れのないあたしを選んだ。欲しいのはあたしの遺伝子じゃない。精子の遺伝子だ。あたしの卵子はその受け皿でしかない。秘密保持を期待できる卵。
 子どもを欲しいと思ったこともないし産むつもりもない。自分の遺伝子や卵子に愛着もない。だからといって、プロジェクトに手ばなしで賛同する気持ちもないけれど。
 腕組みをして目を閉じている長塚と、能面の笑みを張りつけている上田に交互に視線を走らせる。大物二人からの直々の依頼を断ればメンツを潰すことになる。森山に対する長塚の怒りからも、どうなるかくらい想像はつく。あたしに選択肢なんてないじゃん。
 
 鳴海アスカは孤児だ。生後まもなく赤ちゃんポストに入れられていた。親は知らない。肌は黄色いのに、髪は金髪で瞳は鳶色。平均的な日本人女子よりもかなり背が高い。親のどちらかが欧米人それも北欧系じゃないか、その程度の推測がつくくらいだ。
 子どもに興味はないが、遺伝子がどう発現するかには興味がある。この外見のせいで幼いころは……。アスカはぐっと下唇を噛む。
「承知しました。引き受けましょう」
「そうか」と上田は声をあげると続けて「そうか、ありがとう」と、またしても薄い皮膜のような笑みを浮かべた。
 長塚もにんまりする。
 上田はすぐに立ち上がり、アスカの手から資料を奪うとシュレッダーにかける。それを見届けると大臣が腰をあげた。上田は内線ボタンを押して大臣の退室を告げる。
「ま、よろしく頼むよ」
 上田とアスカは入り口に並んで長塚を見送る。
 扉が閉まると、上田はまたソファに腰かけた。
「今後についてだが、メモをとらずに暗記してくれ。卵子の採取は8月21日15時より、中野の警察病院産婦人科特別分娩室だ。総合受付を通さずに直接産婦人科まであがってくれ。産婦人科受付で『Xの件で来ました』と告げれば案内される。報酬はその日に現金で手渡す。くれぐれもこのプロジェクトについては他言しないよう。むろん山際君にもだ、わかっているね」
「承知しています」
(承知なんかするわけないじゃん)
 外部には漏らさない。だが、ボスには話す。
 立ちあがって上田に辞儀をしながらアスカは思う。
 この体温のない笑顔を信じられるわけがない。
 あたしを雇っているのは山際瑛士。なにかあったら助けてくれるのも、ぼりぼり顎を掻きながらあくびをもらす中年のおっさん所長だ。
 リスクに対しては、きちんと保険をかける、そんなの常識でしょ。

(to be continued)

第6話に続く。 


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