『月獅』第4幕「流離(さすらひ)」 第16章「ソラ」<全文>
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これまでの話は、こちらのマガジンにもまとめています。
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第4幕「流離」
第16章「ソラ」(1)
太い鈎爪で肩を鷲づかみにされ、視界がぐいんと急上昇した。耳がきーんとする。海風をまともにくらい、目が開けられない。向かい風を受け瞬速で上昇していくのをソラは全身で感じていた。
――ビュイックだ。ビュイックがまた助けてくれたんだ。
ビュイックは立派なグリフィンの成獣だが、ふだんは幼獣のビューの体内に閉じ込められている。ビューはシエルの左手に握りしめられていた卵から孵った。ところが、二年経っても鳩ぐらいの大きさからいっこうに成長せず、飛ぶこともできない。ビュイックはビューが眠りにつくと姿を現す。昼はビュー、夜はビュイック。そんなおかしな入れ替わりが、もう二年も続いている。
「なぜそんなことになってるのか、さっぱりわからん」とノアは首を振る。
二頭の魂が不完全な幼獣の一体に同居していて、ビュイックの魂はビューの支配下にあるらしい。ソラが嘆きの山の火口に呑み込まれそうになったとき、ビュイックがはじめて姿を現しソラを救った。
昼間にビュイックが現れることは珍しい。
――きっとビューは昼寝でもしてるんだ。あいつは弱虫のシエルにばかりくっついて、ほんとうに腹が立つ。
シエルとソラは双子の兄弟で、天卵の子だ。
天卵は清らかな乙女が流星を宿して生むと伝えられている。伝説にすぎないとされていたが、二年前に流星がエステ村領主の娘ルチルの体に飛び込み天卵を生んだ。天卵は王家にとって凶兆とされる。王宮から狙われたルチルは、追手を欺くため海に身を投げ「隠された島」に流れ着いた。島にはノアとディア親子しか人はいなかった。漂着してひと月が過ぎたころ、天卵が孵った。向き合う勾玉のようにして二人は卵におさまっていたから、どちらが兄とか弟とかはない。シエルは金髪で、ソラは銀髪という違いくらいだ。
ふつう人は卵から生まれないのだとルチルがいうと、
「じゃあ、ぼくたちは鳥なの?」シエルは無邪気な笑顔を向ける。
春になると鳥の雛が、森のあちこちの巣で孵る。
「あなたたちはね、天からの授かりものなの。でもね、王宮から狙われているから、天卵の子であると知られてはだめよ」
だから光を抑える訓練をしましょうね、とルチルは二人の頭をなでる。
卵から孵ったとき、二人はまばゆいばかりに輝いていた。しだいに光は弱くなったが、それでもまだ淡い光のオーラを全身にまとっている。光っていては、天卵の子だとばれてしまう。光らないためには、気持ちを平らかにすることだとノアはいう。
「緊張したり、怒ったり、感情をとがらすのがよくない。のびのびと過ごすのが一番さ。笑ってりゃいいんだよ」
なんだ、簡単じゃないかと、ソラはシエルの頭を小突いて駆け出す。バランスを崩したシエルは仰向けに転んで床に頭をぶつける。
ちえっ、あんなくらいで転びやがって。
「こらぁ、ソラ、待ちなさい」ディアが追いかけてくる。振り返ると、泣きじゃくるシエルをルチルが抱きあげていた。ぼおっと光っている。まただ。ルチルはいつもシエルばかりかまう。
ルチルのことは「母さん」と呼ばなきゃだめだよ、と浜の崖に腰かけてディアはいう。
浜風がディアのオレンジの髪を躍らせる。陽があたってきらきらとまぶしい。赤い胸毛と翡翠色の翼があでやかなケツァールのヒスイが、ディアの肩で羽根を休めている。ヒスイはディアの相棒だ。ディアの傍らにはいつもヒスイがいる。ヒスイは、ディアが命じなければソラには止まってくれない。
「なんでルチルが母さんなのさ?」
「あんたたちを生んで育ててるからね」
「じゃあ、ディアの母さんは? ノアは父さんなんだろ」
「あたしには母さんはいない」
「どうして?」
「さあ、どうしてだろね」
底抜けに明るいディアの顔が陰ったことに、ソラは気づかなかった。
俺たち二人の「母さん」はルチルだっていうけど、ルチルはシエルに付きっきりじゃないか。遊んでくれるのも叱ってくれるのも、いつだってディアだ。ディアが俺の母さんなら良かったのに。
みんなシエル、シエルだ。シエルなんて弱虫でのろまで、泳げないし、潜ることも魚を捕まえることもできないくせに。鳥もイルカもヤギもシエルのまわりに集まる。俺はなんだってできるのに。どいつもこいつもシエルの味方ばかりしやがって、くそっ。
「ビューはシエルにやるよ。いつまでたってもチビで飛べないグリフィンなんか、いらない。シエルにぴったりだ。なあ、だから、ビュイックを俺の相棒にしていいだろ」
ノアにねだると、
「グリフィンは神獣だ。選ぶのは彼らのほうだ」と静かに首をふられた。
「おまえがビュイックに選ばれるようになることさ」
ノアはソラを抱きあげ、蒼い空へと高くかかげる。
ノアが好きだ。
島でただ一人のおとなの男で、漁も狩も大工仕事も畑も何でもできる。大きな手で頭をなでられるのが好きだ。天卵の子には母はいても父はいないと教えられた。母さんよりも、父さんが欲しい。
天卵の子は、人の三倍の早さで成長する。今日でやっと二歳だが、すでに二人は六歳の子と変わらない。おまけにソラの身体能力にはノアも目を瞠るくらいで、十歳の子にも負けぬほどだった。かたやシエルは何をやらせても不器用で臆病な性格もあり四歳児のできることすらおぼつかない。それをルチルは心配する。でもさあ、とディアはいう。シエルは異国の本をもう読めるみたいだよ、と感心する。
「双子といっても、違うもんだね」
ディアはルチルの焼いたクッキーをほおばり笑う。
ルチルはカップに熱い紅茶を注ぎながら、ディアがいてくれて良かったと心から思う。シエルを抱きあげている間に、すばしっこいソラの姿は見えなくなる。ルチルは二人を同じようにかまってやれない自分のふがいなさに、ときどきため息をつく。
「出ておいで、ソラ」「ソラぁ、どこにいるのぉ」
ディアとルチルの呼ぶ声が海風にちぎれる。
誕生日の準備でディアも朝から忙しそうで、しかたなくソラはシエルとかくれんぼをしていた。シエル相手ではつまらない。あいつが鬼になると、いつまでたっても探しにこない。いいかげん退屈してそろそろ出ていこうかと思っていたら、ディアとルチルがソラを探しはじめた。ディアの裏をかいて隠れるのは楽しい。ノアまで俺を探し回っている。はは、簡単に見つかってたまるか。ルチルが焼くパイの甘い匂いがする。嘆きの山には一人で行かないと、ノアと約束をしてるから、それは守る、男と男の約束だもんな。どこに隠れよう。ソラは、はしゃぐ心を抑えて身を低くした。
ソラは浜を見下ろす崖の藪にひそんだ。
小家と崖の間には黄金色に波打つ麦畑が広がっている。来週あたり刈り入れするか、とノアが言っていた。それまでに鎌の使い方を教えてほしいと頼んでいる。冬ごもりの間に小刀のあつかいを教えてもらった。小さな弓も作ってもらった。へへん、シエルなんて、小刀も弓も、まだ無理さ。俺はノアみたいに、なんでもできるようになるんだ。
そのうちに、呼ぶ声がしなくなった。
浜が騒がしい。小舟が何艘も近づいている。カモメたちがけたたましく飛び交う上空にハヤブサのギンの姿を見つけた。ギンはノアの目だ。島の空を見張っている。やばい、ギンに見つかる。ソラは崖の藪に腹這いになる。
沖に目をやると、これまで見たこともないほど大きな船が停泊し、次々に小船を降ろしていた。高い帆柱に金の旗がはためく。二つの頭をもつ鷲の旗。いつだったかシエルが、本を開いて「これがレルム・ハン国の旗。双頭の鷲が描かれてるよ」と指さした。
「ソウトウノワシって、なんだそれ?」
「頭が二つある鷲のことだよ」と教えてくれた。シエルは本が好きだ。世界のいろんなことがわかるという。それの何がおもしろい。魚を獲ったり、崖から飛び降りたりするほうが楽しいじゃないか。本ばっかり読んでるから、あいつはいつまでたっても泳げないし、木登りもできないんだ。
弓や剣をもった兵士が隊列を組んで、続々と浜から丘に続く坂道をあがってくる。いつもなら浜でたわむれているイルカたちの姿はない。こんなにたくさんの船も人もソラは見たことがなかった。
「すげえ」感嘆と興奮がないまぜになる。
隊列に駆け寄ろうと身を起した瞬間、「王宮に狙われているから光っちゃだめ」うるさいくらいに注意するルチルの声が耳裏でこだました。あれは王宮の旗だろうか。「心を落ちつけろ」ノアの声が聞こえた気がして、ソラは藪に隠れたままゆっくりと振り返った。
黄金色に波うつ麦畑でノアが、浜へと下る坂道を睨んで立っていた。
なんだか様子がおかしい。ついさっきまで俺を呼んでいたルチルとディアの姿もない。
兵たちはノアを見つけると、またたくまに縄で縛りあげた。
金モールのついたぴかぴかの服の男が、「天卵はどこだ」とわめき散らす。
ルチルの言葉がほら貝を耳にあてたときみたいに耳奥で反響する。
――光っちゃだめよ、見つかるから。
けど、ノアが、ノアが捕まってる。
ソラは金色の麦にまぎれるようにして近づく。左手にはノアにこしらえてもらったばかりの弓を握りしめる。自らが飛ばせる矢の距離を目測し、弦をきりきりと力いっぱい引いた。
弓でしとめたことがあるのは、足をけがしたアナウサギだけだ。
夢中だった。敵を射抜いたか、わからない。頭がきーんとしている。二本目の矢を背の箙から抜こうと手をかけたときだ。
「ソラぁああああ、走れぇええ!」
ノアの声が風を切り裂いた。敵をなぎ払い駆けて来る。
時間が止まったようなおかしな感覚だった。
ごうごうと唸る海風がソラの耳を覆う。麦の穂が風にいたぶられ金の渦を巻く。そのなかをノアが駆けて来る。ものの数分だったろう。全速力のはずのノアの一挙手一投足がひとつずつ止まって見える。いまこの空間にはノアと自分しかいない、そんな不思議な錯覚にソラの五感は奪われていた。
――良かった。ノアは敵から逃れたんだ。助けられたんだ。俺が、俺が助けたんだ。
安堵と達成感が躰のうちから湧き上がって熱くなる。
金色に輝く麦の波のなかで、ソラは恍惚と立ちつくしていた。ノアの広げた腕があと数歩で届きそうになった刹那、何かがソラの肩をがしりとつかみ躰が浮いた。肩にくい込む鈎爪。ビュイックだ。
ビュイックがまた助けに来てくれた――。
ソラは全身から緊張をとき身をゆだねた。
「ソラ」(2)
突然、ごごごごごごごっという不穏な重低音が、空気を震撼させた。
はじめは鈍く重く。しだいに重量を増してくる。けっして耳を覆うような大音量ではない。だが、地の底から得体のしれない何かがせりあがって来る不気味な圧迫感が島を覆った。
海面が激しくうねる。森からいっせいに大小の鳥が飛び立つ。地底で龍がのたうち大地が軋むような不穏さが確実に強まっていく。島を取り巻く空気がみしみしと震える。震えはしだいに大きくなる。ソラは怖いもの知らずだ。嘆きの山の火口に引き込まれそうになったときも、恐怖は微塵も感じなかった。けど、いまは躰の奥が固唾をのんで迫り来る何かに怯えていた。それを抑えようと、両の手をまっすぐ上にあげ、肩をつかんでいる太い幹のような二本の脚を強く握りしめた。
その瞬間、嘆きの山が咆哮した。
空を切り裂く轟音をあげ、間欠泉のごとく炎を噴き上げたのだ。怒れる龍が天に向かって火焔を吹いているようだった。
火柱が天を衝く。火の礫がソラの足もとをかすめる。次から次へと乱射する散弾銃さながら無秩序に襲ってくる。熱風が渦巻き、息ができない。爆風のはざまから島が火だるまとなって燃えているのが見えた。嘆きの山は狂ったように怒りの火の粉を撒き散らし、どろどろとした血を吐き続ける。
「シエル、シエェエエエエル!」
ソラは喉が灼けるほど声を振り絞った。
なぜノアやディアやルチルではなく、シエルの名を叫んだのかわからなかった。シエルを失う恐怖がソラの胸を締めあげる。自らの半身がめらめらと灼かれる痛みに痺れた。
「ビュイック、シエルが! シエルが!」
太い枝脚を握りしめている手に力をこめ、縋るようにソラは顔をあげて慄然とした。
熱風で目がおかしくなったのか。
火の粉をよけながら見上げた視界に映ったのは、黒い胸毛だった。翼の羽根も漆黒だ。首回りを白い毛が襟巻のごとく一巡している。それがやけに目についた。
ビュイックは胸も翼も黄金色だ。火の粉のせいで黒く見えるのだろうか。目を擦りたかったが、手を離すのが怖かった。後ろを確かめようと、身を反らせる。鈎爪が肩にくい込み腫をえぐる。痛みに歯を食いしばる。グリフィンならば、猛禽類の前脚とは別に、太く立派な獅子の後ろ足があるはずだ。ソラは鳥脚を強く握ったまま、背後へと身をよじった。
獣脚はない。漆黒の尾羽根しか見えない。
グリフィンじゃない。ビュイックじゃない。じゃあ、この黒い巨鳥はいったい何だ。
ソラは激しく混乱し動顛した。
その刹那、天を切り裂いて閃光が走った。ソラは身を凝固させる。
間髪を置かずに、雷鳴が轟いた。天が落ちたかと思うほどの爆音だった。先ほどまで明るかった空は、たちまち黒雲に覆われる。驟雨が容赦なく叩きつける。稲光は次々に天から発射される。地上では嘆きの山が鮮血を吐き続ける。まるで天が嘆きの山に向かって銃を乱射し、撃たれた山が血しぶきをあげているようだった。
怒り狂う嘆きの山をなだめるのではなく、天は圧倒的な力で凌駕せんと嵐を巻き起こしている。地の龍は焔を吐き、天の龍は雷神を引き連れ暴雨をあびせる。足下に目をやると、海面はうねり、泡立ち、すべてを呑み込まんと昏い口をいくつも開けていた。天と地の攻防に、人も生きものも為す術などあろうはずがなかった。
鳥の羽根は防水機能が備わっており多少の雨粒ならはじく。だがこの嵐では毛ほどの役にも立たない。漆黒の巨鳥は雷雲の上に出ることを選んだ。
羽根をたたみ、荒れ狂う嵐のなか、天空めがけ弾丸となって直上する。
全方向から渦巻く雨風にソラは目も開けられない。急上昇する空気圧と風圧の激しさに、ほどなくソラは失神した。
「ソラ」(3)
厚い雷雲を抜けると、天空は静謐だった。
下界の嵐も火山の噴火も、火の咆哮も怒涛の驟雨も、狂気もない。紅蓮の炎も稲光も、命の鼓動のけはいすらない。あまねく太陽に照らされているだけの無音の世界。空気も薄い。ただ風は吹いていた。
コンドルは嵐にもまれた羽根をばさりと一振りし雨滴を払うと、闇を従える翼を広げた。
はるか北にノリエンダ山脈の雪を戴く山頂だけが見える。一文字に連なり、雲の上にわずかに頭頂を現して屏風のごとく聳えている。その北壁をめざし巨大な翼を翻した。
雲海の真上すれすれを滑るように飛ぶ。白い雲の波に黒い影が墨のように走る。
半刻ほど飛んだあたりで、あまりの寒さにソラが意識を取り戻した。躰の芯が凍える。ずぶ濡れの躰から体温が急速に奪われていく。ガチガチと歯が震えた。
ソラは薄目を開けて驚いた。
一面が真っ白な空間だった。
自分がどこにいて、どうなっているのかがわからなかった。先刻まで嘆きの山が火を吹き、稲妻が光り、嵐が渦巻いていた、あれは夢だったのか。それとも、これが夢なのか。雪のような雲が足もとで静かに波打っている。ぽたりと赤いものが一滴、雲の上に落ちた。にわかに肩に喰いこむ鈎爪の痛みがよみがえり、ソラは顔をあげた。
漆黒の胸毛と白くふさふさした襟巻のような首毛。
「おまえはグリフィンじゃないな」
コンドルはちらりと脚先の獲物に視線をやったが、また前を向いた。答える代わりに鈎爪をさらに深くソラの肩にくい込ませる。
ソラは激痛に歯を食いしばる。
両手をあげて黒い巨鳥の脚をつかみ、肩にくい込んでいる鈎爪をはずそうと力の限り揺さぶり叫ぶ。
「おまえは誰だ!」
ソラが揺らしたぐらいでは、びくともしない。だが、暴れるのがうるさかったのか、黒鳥はちっと舌打ちをする。
「俺様はこの世で一番でかく勇猛なコンドルよ」
得意げに嘴を鳴らす。
「コンドル? 島にそんな鳥はいなかった。俺をどうするつもりだ」
「おまえ、天卵の子だろ。光ってる」
ソラはぐっと黙りこみ、自分の躰に目をやる。緊張の連続でオーラを抑えることを忘れていた。
「俺たちゃコンドルは、死肉しか食わねえ。だからこそ死神と恐れられるのさ」
巨鳥は胸を反らせて漆黒の翼をばさりと羽ばたかせる。
「ただし、天卵の子を生きたまま喰らわば光の力が漲るって言い伝えがある。そんなまゆつばもんの伝承を信じるほど俺は愚かではない。が、」
というと、コンドルはぐいっと高度を上げた。ソラは必死で鳥脚を握る。
「二年前に星が流れた。ほどなくして、王宮の下僕になりさがったカラスどもがぎゃあぎゃあ騒ぎまくってやがった。天卵が生まれたとな」
コンドルは首を下げてまじまじと脚もとのソラに目をやる。
「まさか本当にいたとはな。もうじき雛が巣立つ。またとねえ獲物だ」
嗄れただみ声は風にちぎれ、半分もソラの耳には届かなかった。
わかったのは、天卵の子だから狙われたということだけだ。
――逃げなければ。
だが、もがくほどに爪は肩に喰いこみ、腫をえぐる。皮肉なことにその痛みが、寒さで遠のきそうになるソラの意識を保たせていた。コンドルの脚をつかんでいる両手も寒さで痺れ感覚がなくなっていく。
母さん――ルチルの顔が浮かんだ。
ノリエンダ山脈の山頂を超えるとコンドルは翼をたたみ、北壁にそって急降下し始めた。
ソラはふたたび意識を失った。
「ソラ」(4)
どさっ。
顔面を強打し、ソラは目を覚ました。
細かな羽毛が埃となって舞っている。ごつごつした岩の上に抜け落ちた薄茶色の胸毛が散乱していた。鼻、頬、腕、腹。ソラの全身に鈍痛が走る。起き上がろうとして吐いた。口の中にどろりと血の味がした。
轟々と風が吹きつける。奥は暗くてよく見えない。
軋む躰を無理にねじって背後を振り返ると、中空に突き出た岩盤の端で、コンドルが翼を広げ羽繕いをしていた。下から見上げると黒一色だったが、広げた翼の先端には白い羽根も見えた。
――逃げねば。だが、どこに?
ソラは這いつくばったまま、岩盤の縁を覗いた。
自分が今いるのは、鋭く天を衝き屏風のようにそそり立つ岩山の崖にできた洞だとわかった。吹きつける風が容赦ない。五月だというのに連なる嶺にはうす汚れた雪がまだらに残っている。
奥の闇で何かが、のそりと動いた。ソラは身構える。
「この絶壁から飛び降りて果てるか、雛のエサとなるか。いずれにしても、おまえの命は風前の灯。天卵の子といっても、光るだけじゃあ、喰らう相手に力を与えこそすれ、己の命の助けにもなんねえとは。哀れなもんだ」
嗄れた声で嘲笑うと、コンドルは巨大な翼をこれ見よがしに広げ、ソラに背をむける。
極上の獲物はわが子に残すつもりか。気流を見定めると、雪嶺の連なる中空へと滑るように飛翔していった。白い尾羽が太陽の光をはね返してきらめき、すぐに点となった。
ほっとしたのもつかの間、頭上にはヒナの嘴が迫っていた。
腹這いのままソラは後ずさる。
がらっ。
崖の縁に掛けた足もとの岩が崩れる。落下した音が響かないほど、洞は急峻な岩山の頂近くにある。
落ちる――と目をつむった瞬間、鋭い嘴に掬い取られた。落下の危機はまぬがれたが、すぐさま嘴はソラを咥えたまま天に向けられ、そのままごくりと丸呑みにされた。
赫黒くぬめった底なしの闇に呑み込まれた。酸っぱい饐えた臭いが鼻をつく。荒波にもまれる小舟のごとく上下左右の不規則な蠕動に翻弄される。立つことはおろか姿勢を保つこともおぼつかない。ソラは激しく吐いた。ぬるっとした液体にまみれ、躰の自由が利かない。だが、本能がこのままでは駄目だと警告する。背の箙に突っ込んでいた矢は飛行中に落ちてしまい一矢も残っていない。腰に差した手刀を探る。手がぬるぬるして柄をうまく握れない。「獲物を一撃でしとめるなら、喉か首だ」ノアの教えが脳裡をかすめた。ぬめりの海で身をよじる。立ち上がろうとすると、すべって足を奪われる。昏い胃のなかでソラの躰だけがぼおっと光る。その微かな明かりを頼りに喉の位置を、不規則に動く胃壁をかきわけて探る。
――見えた、あそこか。
細くくびれた空洞を見つけた。ソラは手刀を握り直す。足もとを何度もすくわれ体勢を崩しながら、手の届く限り高い位置に渾身の力で手刀をぎりぎりと揉みこむ。
ぎゃぎゃ、ぎゃぎゃっ、ぎゃぎゃああ。
けたたましいだみ声が、喉の内壁を揺らす。コンドルの雛は痛みを取り除こうと、首を激しく振る。ソラは懸命に手刀の柄を両手で握り、さらに深く押し込む。ちぎれた血管から鮮血がしたたる。コンドルの雛は激痛にのたうち暴れる。その体内で血と胃液と消化しきっていない懸濁にまみれソラの意識も朦朧としていく。
断末魔の叫びをあげ、無秩序に暴れまわっていた雛の動きが不意に止まった。
一瞬、躰が浮いたと思った瞬間、頭を逆さにして高速で落下していく感覚に襲われた。コンドルの雛が痛みにのたうつあまり断崖の巣から脚を踏みはずしたにちがいない。ソラが閉じ込められている腹が空圧に押されひしゃげていく。息が苦しくなる。
ソラはまた失神した。
「ソラ」(5)
ノリエンダ山脈の山頂にある断崖から落下したコンドルの雛は、まだ飛ぶことができなかった。羽ばたきの練習はしていたし、親鳥と同じ立派な翼も生えそろいつつあったから、あるいは飛べたかもしれない。だが、喉に突き刺さった激痛に正気を失っていた。気流をとらえることはおろか、痛みに身悶えし翼を開くことすら思いつきもしなかった。ソラを呑み込み、重さが二倍になった体躯はその荷重で弾丸さながらの高速で落下した。
崖に沿って三百メートルは落ちただろうか。雪解け水が育てる針葉樹の林に至ってようやく樹々に阻まれ、枝を次々に薙ぎ払い、地面に打ちつけられて果てた。雛の命が潰えると、胃の蠕動も止まったが、風圧に押しつぶされた腹はひしゃげたまま力を失くした。ソラにとって幸いだったのは、雛の厚い肉が落下の衝撃から守ってくれたことだ。
だが、すぐに収縮したままの胃壁に押しつぶされ、呼吸が苦しくなった。雛の個体としての命はこと切れていたが、体内に残された未消化物や循環の滞った血脈から早くもガスが発生しはじめていた。一刻も早くここから脱出しなければならない。ソラは本能で悟った。
嘴をこじ開けて脱出するのがもっとも手っ取り早い。雛の喉に突き刺した手刀を抜いて腰に戻すと、喉口に手をかけ、腹這いで進もうとした。ところが、筋肉のやわらかさを失った喉は収縮し、ソラの両腕がやっとなくらい狭まっていた。肩はおろか頭も通らない。いくら手や頭で広げようとしてもびくともしない。ソラを呑み込んだはずの喉首は、今ではソラの頭の半分にも満たない細さだった。
腹を切り裂くしかない。ソラは手刀を突き立て、腹を裂こうとした。けれども、肉が厚く、胃液や血まみれで刃の鋭利さも失われている。ソラの体力も限界に近づきつつあった。柄を両手で握りしめ力をこめるが、刺すことはできても、一寸たりとも動かすことができなかった。命脈の切れた内臓はさまざまなガスを噴き出す。いよいよ息がつけない。海に潜って魚を追っているときは、息が苦しくなれば水面にあがればいい。ガスの充満したこの閉鎖空間では、どこに顔を向ければ息ができるのか。
苦しい、もうだめだ。手刀の柄で額を支えるのが精一杯だった。
何かが胸をせりあがって来るのを遠ざかる意識のなかでソラは感じていた。心の臓のあたりに何かが満ちてくる。
かっと胸が熱くなった、そのときだ。
突然、まばゆい閃光がきらめき、ソラの躰の芯が強く光った。皮膚の毛穴という毛穴から何かがいっせいにほとばしり出る感覚に貫かれる。
光は一瞬で消えた。
何が起こったのか、自分が何をしたのか、わからなかった。
ただ、あれほど苦しかった呼吸が楽になった。
気づくと雛の腹の肉が内側から焦げ、下腹部に穴が開いていた。ソラは焦げた肉をむしりとり、穴を押し広げ雛の胃からにじり出た。
あたりはすっかり夜になっていた。
四つん這いで喘ぐように深呼吸し、山の冷気を肺にとりこむ。息をするというよりも、空気をむさぼり飲んだ。そのまま倒れこんで雛の骸に背をあずけ、ようやく緊張をほどいた。
月が針葉樹の林間を蒼く照らしている。星がまたたいていた。雛の胃のなかの闇は底なしだったけれど、夜はあんがい明るいんだな。
しばらく雛にもたれソラは夜空を眺めていた。
――ソラ、あれが北の碇星だよ。
シエルの声が聞こえた気がした。
闇に眼をこらし、居るはずのない影を探した。
――シエル、ディア、ノア……、母さん……。
最後にルチルの名をつぶやいた。
今朝までみんな隣にいた。けれど、今はだれもいない。ソラの傍らにあるのは、コンドルの雛の骸だけだ。
ソラはめったに泣かない。グリフィンの雛のビューに激しく突かれたときも、嘆きの山の火口に引き込まれそうになったときも、泣かなかった。コンドルの鋭い鈎爪で肩を抉られても、ひと粒の涙すらこぼさなかったけれど。
もう名を呼びかけても、応えてくれる人はいないのだと悟った瞬間、涙が堰を切ったようにあふれだした。
「シエール」
「ルチルー、母さあん」
「ディアー」
森閑とした針葉樹の林にソラの声だけがこだまする。
最後にあらん限りの声を張り上げて「ノアーーー」と叫ぶと、吠えるように泣きじゃくった。
「ソラ」(6)
涙が涸れるまで泣いたら、喉がひりひりした。
闇でよく見えないが、あたりに川や泉はなさそうだ。ソラは岩間に残っていた雪をひとつかみすると口に含んだ。がりっと土の味がした。舌にざらつく土や砂のかけらをぺっぺっと吐く。がぶがぶと水を飲みたかったけれど、しかたない。土の混じった雪を手当たりしだいにほおばった。
手や顔のまわりにこびりついた胃液や血も雪でざっとぬぐうと、急に腹がすいてきた。朝にパンをかじったきりだ。何度も吐いたから、おそらく胃には何も残っていない。周囲にあるのは針葉樹とわずかばかりの下草。果実など転がっていそうになかった。めぼしい食糧はコンドルの雛だけか。ソラは生肉を食べたことがなかった。
両腕を前に突きだして自身の躰を見渡す。まだ、うっすらと光ってはいるが、ふだんと変わりない微かなオーラがもれているだけだ。あの一瞬の光は何だったのか。ソラは胸に力をこめてみる。
――光るだけじゃあ、喰らう相手に力を与えこそすれ、己の命の助けにもなんねえとは。哀れなもんだ。
コンドルの嘲笑が耳の奥でこだまする。
あの強烈な光を自在にあやつることができれば。
だが、どんなに気を集中させ筋肉を緊張させても、おぼろげな光の膜にしかならない。肉を焦がすほどの光を発することはできなかった。
これ以上力をこめるには体力も限界だ。とりあえず空腹を満たそうと、閃光で焼け焦げた肉片だけをむしり取る。塩をしていない肉は、硬いだけで味気ない。ノアが炭火で焼く猪肉は、脂が火にしたたって匂いまでおいしかったのに。きょうは誕生日のはずだったのに。ルチルがパイを焼いていたのに。また、涙がこみあげてきた。それをぐいっと腕でぬぐう。これじゃあ、泣き虫シエルじゃないか。くそっ。
夜風にぶるっと身を震わせる。雛の体内は温かったが、もう一度、あそこに戻る気にはなれない。少しばかり肉を食べたため、かえって腹がすいてきた。空腹と寒さをまぎらわそうと、ソラは雛の翼の間に潜り込んで眠った。もう何も考えたくなかった。
ところが、瞼を閉じていくらもしないうちに不穏なけはいがした。
グルルルルっ。
何かが喉を鳴らして近づいて来る。羽根の間からうかがうと、狼よりもひと回りほど小さな獣が三頭いるのが見えた。雛の血の臭いを嗅ぎつけたのだろうか。いや、違う。あれほど声を張りあげ咽び泣いたのだ。無音の闇に響かないはずがない。ソラは己の迂闊さを激しく後悔した。
手刀一本では一頭は倒せても、三頭は無理だ。
策を立てるいとまもなかった。
気づくと大きさも種類も異なる獣が四方八方から集まって来る。七頭、いや十頭はいる。まだ雪の残る高山では獲物にはめったに出会えない。飢えた獣たちが牙をむき、低く唸りながら互いを牽制していた。
夜とはいえ銀の月が明るい。闇にまぎれることはおろか、身を隠す藪すらない。
戦う選択肢はない。ソラは翼の下で息をひそめた。
そのうちに小競り合いがはじまった。
「ナキオオカミども退け。獲物は俺たちがいただく」
「死肉をむさぼるハイエナどもめ。貴様らにはコンドルの雛をくれてやろう。ありがたく思え。羽根の下で光ってる獲物は一番乗りの我らのもの。死肉を咥えてさっさと失せろ」
うずくまっていたソラは、はっと己の躰に目をやる。
ああ、まただ。また光っている。くそっ。
強く心のうちで念じてみたが、あの強烈な光を発することはできない。存在を教えるだけの役立たずの光。ソラは下唇を噛む。
「てめぇらこそ、その寸足らずの尻尾を巻いて塒に帰れ。ありゃあ、天卵のガキだろ。喰らわば光の力が漲るっていう。さぞうまかろう。腹が鳴るわ」
「ごちゃごちゃうるせえ。ハイエナも、オオカミも退きやがれ」
抜け駆けは許さぬとばかりに、互いが互いを牽制し毒舌を吐き、一発触発の睨みあいが勃発していた。
その隙をソラは逃さなかった。
翼から身をすべらすと、ソラは駆けた。不規則に林立する針葉樹の間を右に左に縫うようにして駆けた。四つ足の獣たちにかなうとは思っていない。できるだけ遠くへ。もはや己の身が光って目印になっていることを気に懸けるよゆうはなかった。
気づいた獣たちが追う。だが、十数頭が狭い山肌を我先にと無秩序に追い駆けるものだから、あちこちで互いに衝突し、宵闇に怒声が飛び交う。出合い頭にぶつかり倒れた二頭の背を足蹴にして駆ける獣。脇腹に噛みついて引きずり倒す輩。根雪に滑るもの。その上を跳び越え、激突するものたち。あたりは瞬く間に混乱のるつぼと化していた。
騒動を背で聞きながらソラは必死で駆けた。ぬかるみに転び、木の根につまずき、それでも駆けた。足が止まったら、しまいだ。息があがる。朦朧としながら駆けた。
岩に足をとられ前のめりに倒れた。
両手をつき呼吸を整えながら顔をあげて、ソラは硬直した。
他を威圧するほどの巨躯をもつ白虎が金の眼を光らせてソラを凝視していた。月明かりに蒼く輝く白銀の毛並み。墨のように流れる虎斑模様。その体躯は通常の虎より二周りほど大きい。
前には巨大な虎、背後から群がり迫る獣たち。
もはやソラには逃げ道すらなかった。
「ソラ」(7)
「北壁の雷虎!」
先頭で追い駆けてきたナキオオカミは驚愕し、残雪でぬかるんだ地面に前脚の爪を立て、つんのめりながらかろうじて止まる。その声は怯え慄いていた。後続のハイエナもジャッカルも、猛虎の存在に気づくやいなやその場に凍りつく。ソラは白虎の眼前で尻もちをついたまま逃げ場を失い動けずにいた。
緊張が玲瓏たる宵闇を支配した。
「吾のために獲物を追い立ててくれたか」
低く地を這う声が夜気を揺らす。牙を剥いたわけではない。月明かりにきらめく鋭い金の双眸が、居並ぶ小獣たちをぎろりと睥睨しただけである。
閃光のごとき金の眼で睨み据えられると、まるで雷に打たれたように皆、居竦み動けなくなり、その狩は稲光りのごとく一閃で終わるという。故に雷虎との異名で畏れられてきた。峨々たる雪嶺に轟く覇名である。
悪食で知られるハイエナも、雷虎が現れればたちまちに退散する。だが、今宵はちがった。伝説の宝が目の前にあるのだ。喰らわば、光の力を得るという天卵の子、この千載一遇の機会を逃すわけにはいかない。欲が凌駕する。
光の力が何かは知らぬ。だが、この北壁で力はすべてだ。
ノリエンダ山脈の北壁は冬も夏も厳しい。多くの生き物は冬に飢え、夏に渇えて果てる。強靭でなければ、ここでは生きてはいけない。喰らわば力の源泉を得られるというなら、命を懸ける価値がある。
「こいつは吾が貰い受ける」
文句はないなとばかりに、白虎が言い放つ。
無言の不満があちこちでとぐろを巻き、小獣たちは対峙したまま退こうとしない。
「ほほう、吾にはむかうか。それほどまでに天卵の力が欲しいか」
闇にごくりと喉が鳴った。群れの中ほどにいたハイエナが声を震わせる。
「あ、あたりめぇだ。で、伝説の力だ。お、おいらたちが見つけた。おらたちのもんだ」
ふん、と白虎は鼻で嗤い、金の眼で群れを凝視したまま、一足、歩を進めた。幹のように太い脚がソラの膝に触れそうな位置に迫る。ふつうの虎の倍はありそうな下顎が、ソラの頭上の月明かりを遮る。じりっと獣たちが後ずさる。数頭が恐れをなして駆け去る足音がした。
「この者一人をめぐって血で血を争うか。まさに禍玉じゃな」
<悪しき誘いには禍玉とならむ>
『黎明の書』の一節を誦しながら、白虎はソラに視線をよこす。
――禍玉だと。俺は何もしていない。コンドルが俺をさらって、獣たちが俺を狩ろうとしているだけじゃないか。こんな役立たずな光、欲しければいくらでもくれてやる。天卵の子ってなんだ。そんなものに俺は生まれたかったんじゃない。
ソラは心の裡で歯噛みし、まなじりを引き攣らせて白虎を見返す。金の眼が一瞬、やわらいだ気がした。
「八頭か。皆でかかれば、吾を斃せるかもしれぬな。だが、みごと吾を斃せても、その後どうする。こんな腹の足しにもならぬガキを仲良く分け合うか。否。最後の一頭になるまで互いに殺し合い死力を尽くすのであろう。おまえたちが相争う隙に、こやつは逃げるぞ。せっかく冬を越した命を、かような無益な争いで落とすとは、なんと愚かなことか」
どさっと雪煙をあげて何かがハイエナたちの足元に投げ出された。
「吾が仕留めた羚羊じゃ。肉のついておらぬガキよりも、よほど腹の足しになろう」
生肉の臭いにハイエナの口から涎が垂れる。こんな馳走にはめったと出合えぬ。本能を抑えきれぬのであろう。ふらふらと二頭が近寄る。それを契機に小獣たちが我先にと羚羊の肉塊に群がりむさぼり喰いはじめた。
その隙に白虎はソラの首根っこを咥えると、群れの頭上をひらりと飛び超え駆けた。一駆けで半哩の俊足にかなうものなどいない。すでに戦意を喪失した獣たちが、むさぼり喰う咀嚼音だけが闇夜を揺らしていた。
「ソラ」(8)
急峻な崖の隘路を白虎はソラを咥えて跳ぶように駆けた。
針葉樹の林を抜け、いくつかの岩間を駆けあがる。コンドルの巣のあった天崖より遥か下ではあったが、風は容赦なく丈の高い樹はない。雪に浸食された崖道は脆く、白虎が蹴るたびに岩が崩れ谷へと落ちる音が響く。そんな断崖の途上に大きな一枚板の岩と岩が斜めに支え合う三角の間隙があった。巨虎が身を低くしてかろうじて入れるほどしかない。だが奥に深かった。
入り口が狭いからか外気が入らず、中は存外に暖かかった。
ここがねぐらか。
白虎はソラを口から放すと、洞の入り口を塞ぐように腰を落とした。風すら吹き込んでこない。逃げ道を断たれたことをソラは悟った。
上顎からとびでている鋭く大きな二本の牙が洞窟の闇に白く光る。あれを突き立てられれば、ソラの薄い皮膚などひとたまりもない。ひと噛みで喰いちぎられるだろう。
ソラは腰にさした手刀の柄をなでた。コンドルの雛ならまだしも、小さな手刀では白虎に傷すら負わすことはできないだろう。たとえ今、逃げおおせることができたとしても、すぐにまた別の獣に襲われるだけだ。雄々しく美しい獣の王の餌食となるなら、諦めもつく。
ソラは自身を贄として奉げるかのように、岩盤に横たわり目を閉じた。
瞼の裏に嘆きの山が火を噴く残影がよみがえる。ノアやルチルたちとの日常は吹き飛んだ。彼らが生きているとは思えない。独り生きていて何の意味がある。もういい、もう十分だ。死ねば天卵の子の軛からも逃れられる。
生きる意志を放棄すると、緊張がほどけたのか、闇に引きずられるように眠りの深淵に陥りかけた。と、そのときだ。
顔をざらっとした舌でひと舐めされた。
薄く目をあけると、目の前に赤く厚い舌があった。味見をしているのか。ソラは身を竦ませる。眠ったままひと齧りで喰ってくれれば良かったのに。諦めと共にあった覚悟が、たちまち闇に消える。恐怖がソラを貫通する。
顔をひととおり舐め終わると、腕を足を背を全身を舐める。舐められるたびに、背中に電流が走る。だが、いっこうに喰らいつくけはいがない。どころか、衣の上からも丁寧に舐めている。味見ならば衣など剥いでしまえばよいのに。舌先を丸め、襟ぐりにそって器用に舌を這わせる。躰にこびりついていたコンドルの雛の胃液や血がきれいにぬぐわれていることに気づき、ソラは身を起した。
「喰わないのか」
雷虎は金の眼をちらりと眇めたが答えず、ごろりと横臥した。
「おまえこそ、腹がへっているのであろう」
下腹部に睾丸はなく、腹には赤くふくらんだ乳房が並んでいた。
「牝……だったのか」
ソラは目を瞠る。
「吾は仔を亡くした」
狩に出ているあいだのことだったという。一発必撃の雷虎といえども、獲物を見つけなければ狩にならない。雪がすべてを覆いつくす冬は、獲物に出合うことすら難しい。一日雪山を彷徨っても収穫のない日もある。それでも、乳を与えるため日に一度は洞に帰っていた。だが、さすがに乳の出も悪くなったため、三日ねぐらに戻らなかった。ようやっと羚羊をしとめて戻り、ひと目で異変を察した。狩に出るときは、外敵から幼い命を守るために入り口を雪で塞いでいた。それが崩れている。鼻の利くナキオオカミに見つかったか。だが、洞内に血痕はなかった。洞前にもオオカミの足跡はない。代わりに、崖縁でとぎれている小さな足跡が雪に消えかけていた。
白虎は一度に一頭しか産まない。
「ひもじかったのか、寂しかったのかはわからぬ」
前脚に顎をのせ、ソラから視線をはずす。
皮肉なことに、仔を亡くしてからは獲物がたやすく見つかるようになったという。たとえ多く見つけても必要以上に狩ることはない。それでも、腹がふくれれば、乳も張る。だから、「飲んでくれぬか」と、視線をそむけたままいう。
ルチルの乳房を吸っていた日のことをソラは覚えていない。そういえばディアが、「あんたはよく飲むから、引きはがすのがたいへんだった」と言っていた。ルチルの乳だけでは足りず、ヤギの乳も用意してたのよ、と。
山桃の実のように赤くふくらんだ白虎の乳首を、ソラはおそるおそる口にふくむ。がりっと噛むと虎は微かに身をふるわせた。白く甘い液体が腔中に広がる。ソラは腹這いになり、くらいついた。気づくと両手で白虎の乳房をもんでいた。
ようやく乳首から口をはなした。腹のあたりがあたたかい。
「天卵の子よ」
白虎はソラを前脚でたぐりよせる。
「そう呼ばれるのは好かぬ。俺にはソラという名がある」
「ソラか。良き名だ」
「白虎、おまえの名は」
「吾に名なぞないが、昔、ライと呼ばれたことがあったな」
白虎の声をソラは耳の奥で聞く。腹を満たし、銀の毛並みに抱きかかえられると、波のような眠気が押し寄せて来る。この状況をどう解釈したらいいのかはわからない。今はこのぬくもりが心地よい、それ以上何を求めよう。
白虎が入り口前に陣取ったのは風を防ぐためだったと察したのは、ずいぶん経ってからだった。
ノリエンダの北壁ではしばしば、淡く光る人の子を乗せて駆ける雷虎の姿が目撃されるようになった。
「ソラ」(9)
流れるように二年が過ぎた。
ノリエンダ山脈の北壁では、一日一日が生きていくための挑戦である。天卵の子は、人の子の三倍の早さで成長する。四歳になったソラは、十二歳の体格を持つ少年に成長していた。
ぴしっ。
極限まで凍りついた空気を切り裂き矢が走る。
「ライ、しとめたぞ」
白銀の虎の背に仁王立ちになっていた少年は、ぱっと背から飛び降りて駆ける。
吾に乗って翔けたほうが速いというのに。
雪に足をとられ滑るように駆ける少年の後姿に白虎は苦笑する。ひと翔けで追いつき「乗れ」と命じると、ソラはぷいっと顔を背け、脇をすり抜け派手に雪煙を巻きあげながら駆けていく。
近頃、ソラは従わぬことが増えた。いよいよ子別れすべきか。
北壁の獣たちに畏れられる吾が、このような些事で逡巡するようになろうとは。ライは吹き荒ぶ風に顔をしかめる。
虎の幼獣はおよそ二年で狩を習得し独り立ちする。ソラは出合ったとき、すでに二歳であった。天卵の子は人の子よりも成長が早い。だが、人の子は長く親と過ごすと、猩猩が言っておった。しかるに、己を賢者とうそぶく彼らですら、人の子別れの時期を尋ねても、はきとした答えを得ることはできなかった。
ライがソラとの子別れをためらう理由は、今ひとつある。
共に暮らし始めてすぐにソラは弓をこしらえた。弓が人間の使う飛び道具であることはライも知っている。
ソラによると、ノアという男がこしらえてくれた弓は、コンドルにさらわれたときに矢もろとも落としたらしい。ノアがこしらえる様を隣で見ていた。記憶をたどりながらの初作は、矢が飛ばなかった。きっと枝のしなりが足りなかったんだ、とすぐさま代わりの枝を見繕いに洞を飛び出ていった。イチイやセイヨウネズなど種類や長さの異なる枝を何本も持ち帰り、火を熾し、枝をたわめる。矢羽根を集める。手刀で削る角度を少しずつ変える。弦の張りを確かめる。まともに飛ぶ弓ができあがっても、飛距離を伸ばし精度を高める工夫を怠らない。
獣もむろん狩のしかたを工夫する。だがそれは、身の伏せ方であったり、跳躍の角度や喰らいつきかたであったり、獲物の逃走経路の先回りであったり、いずれも己の躰の使い方だ。人のように力を道具で補うという発想がそもそもない。
人間の狩をライは侮蔑していた。己の力を高めずに道具に頼るとは無様な、と。孤高の猛虎の矜持といえよう。
ソラと狩をするようになって、その認識がたちまちに瓦解した。
ライは間合いを見切り雷のごとく一撃でしとめる。ゆえに雷虎と畏れられる。狙いを定めた獲物を逃したことはない。ただし、間合いを詰める必要がある。一跳でしとめられる距離まで気配を消して近づかねばならない。ところが、弓を使えば遥かに離れた場所からでも獲物をしとめることができる。たとえ一矢でしとめられなくとも、傷ついた獲物を追うことはたやすい。駆けながら背にまたがったソラは二の矢、三の矢を放つ。
狩のしかたが劇変した。己の跳躍力を鍛えても超えられない壁は厳然とあった。それを弓はやすやすと無効にしたのだ。
道具とはこれほどのものかと、驚嘆した。
だからといって、ソラ一人では狩を成功させることは難しい。羚羊や熊ほどの躯体になると一矢では致命傷とならない。傷ついた獣ほど狂暴になる。斃すにはライの一撃が必須だった。互いが互いを必要としたのだ。子別れをためらう真の理由は、まさにそこにあることをライは自覚していた。
敗北の予感は、道具の力を認めた日から地下水脈のようにあった。
冬山はあらゆるものの気配を閉じ込める。
嶺に渦巻く風の嬌声を除けば、山に響くのは枝に積もった雪のずり落ちる音とコンドルの羽ばたきくらいだ。獣たちの駆ける足音まで雪がのみこむ。
静謐の世界。それが突如、破れた。
ドン。ドン。
二発、鈍い重低音が地を這い雪嶺を震撼させた。
振動であちこちの枝からいっせいに雪が落ちる。白い雪煙が舞いあがる。
嗅いだことのない焦げた臭いと共に、ライの右の腹に鈍い痛みが走った。矢は刺さっていない。敵の姿も見えない。正体はわからないが、飛び道具のしわざであることは確実だ。
ライは背に乗っていたソラを振り落とし、「逃げろ」と低く唸る。
「いやだ」
ソラは銀の眸を爛々と光らせ、まなじりを吊りあげ睨み返す。
ライは舌打ちし周囲の気配を探る。
右の岩陰に一人。斜め前方の巨木の根元に一人、左の崖下に一人、左後方の崖下にも二人。右後方の崖上に二人。いずれもライの渾身の跳躍でも届かない距離だ。
いつのまに。ぎりっと奥歯を噛み締める。
雪が音を消すといえど、狩に夢中になり異変に気づかなかった。囲まれている。不自然に斜め後方の道だけが開いているが、おそらく罠だろう。
新雪に血がぽたりぽたりと滴る。
慢心していた。ソラと狩をするようになり、生きるためのひりひりする緊張感が、いつしかなくなっていた。それが、このざまだ。
飛び道具の恩恵にあぐらをかき、飛び道具にしてやられるか。
ぐるるっと喉を低く鳴らすと、ライはソラの首をさっと咥え、背後へ放り飛ばす。
ソラの躰が放物線を描いた瞬間、四方八方から白虎に向けて飛び道具がいっせいに火を吹いた。
ド、ド、ドン、ドン、ドン、バン。
小山のごとき体躯のいたるところを礫が貫通する。純白の毛並みが、みるみるうちに赤く染まる。それでもライは四肢を踏んばり、びくともしない。どころか、礫の飛来した方角を舐めるように順に睨み、地鳴りのごとき咆哮で威嚇する。鋭い牙に冬の光が反射する。
ドン、ドン、ドン、ドン。
また、礫を吐き出す音が高山にこだまする。
「ラァアアアアアーーーイ」
ソラが甲高い声をあげて駆けて来る。馬鹿が。逃げろ、と命じたのに。
もはや駆け寄り盾となってやることもできぬ。
「来るな!」
振り向いて短く叱咤するライの右前脚の膝を、礫が一発、貫いた。とうとう己の巨体を支えきれずライは膝をつく。それを最後に攻撃が止んだ。
やはり、か。
狩人たちの狙いは吾であり、同じ人としてソラを傷つけるつもりはないのだ。ライはソラの無事を確信すると、どうっと雪煙をあげて、斃れた。
「ライ、ライ、ライ。いやだあぁあああ。ラァアアアアアーーーーーイ」
雪を蹴散らし駆け寄ったソラは、ライの首に抱きつき、喉が千切れるほどの嘆きの慟哭をあげた。
そのとたんだ。すさまじい光の柱が天を衝いた。
ソラの全身から光が迸り出で、太い柱となって天を貫く。
遠ざかる意識の果てにライが目にしたのは、神々しさなど微塵もない赫く禍々しき光であった。
「ソラ」(10)
ソラは鉄格子の檻で目覚めた。
暴力的な陽ざしが肌に刺さる。周囲には茫々たる砂の海しか見えない。四方を鉄格子で囲まれた檻は、砂漠の上に置かれていた。
大型獣用の檻なのか、床と天井は板張りでかなり広い。ソラが転がっているあたりはかろうじて日陰になっていたが、地を這う熱風が喉をふさぐ。無秩序に吹く風が砂を舞いあげ、横臥した目を襲う。
起き上がろうとしたが、躰の芯に力が入らない。全身がだるく、腕も痺れていた。
檻の隅に皿と革袋が置かれている。砂まみれだが肉は肉だ。ノリエンダの北壁ではいつ獲物にありつけるかわからなかった。腹が空いていようがいまいが、獲物があれば喰らう。飢えないための本能だ。喉もひりつくほど渇いている。
身を引き摺って這い、革袋に手を伸ばした。歯で栓を抜き臭いをかぐ。掌に一滴だけ受け、舐めて確かめる。ぬるいが舌はひりつかない。肩肘をついて半身を起し、むさぼり飲んだ。こぼれた水が顎をしたたる。ひと息に流し込むと、砂をはらって肉を食む。腐敗が進みかけているのか死臭がした。
身の裡がじわりと覚醒する。立ち上がろうとしてようやく、鉄球のついた鋼鉄の足輪が嵌められていることに気づいた。
いつ、こんなものを。
なぜ砂漠の檻にいる?
俺をさらったのは誰だ。
ルチルが警戒していた王宮か。
何かたいせつなことを忘れている気がする。ソラはまだ朦朧としている頭を振る。
東の方角から馬の嘶きが聞こえた。砂煙を巻き上げて数騎が駆けて来る。砂漠馬か、脚が太い。砂漠馬は足裏が扁平で弾力があるため砂に埋もれずに駆けられる。
先頭の一騎が速い。檻まであと一駆けのところで手綱を引き、ひらりと下馬する。
白く長い衣の裾が砂風にはためく。頭も白い布で覆われているのか、全身が真っ白だ。男に比べると砂の海はよほど褐色なのだとわかる。腰に帯びている大ぶりの佩刀の鞘だけが黒い。首に幾重にも提げている宝玉がちらちらと不規則に太陽光を反射させていた。後続の四騎が濛々と砂塵をあげて追いつく。その黄色い砂煙を光背にして長身の男が大股で近づいて来る。
「目覚めたか」
四つん這いで身を低くしてソラは睨む。
「まるで獣だな。まこと天卵の子か?」
「おまえは誰だ。ここはどこだ」
ソラが吼える。
「貴様、無礼であるぞ」
追いついた従者が息を荒げる。
「コーダ・ハン国第八代皇鄭、チャラ・ハン鄭であらせられる」
コーダ・ハン? 聞いたことがある。でも、誰から?
記憶は砂のようだ。すくっても指からたちまちにこぼれ落ちる。
ソラは立ち上がろうとして、ぐらりとよろけ肩から床板に崩れ落ちた。
「力が入らぬか」
チャラ・ハン鄭は懐から小袋を放ってよこす。
「解毒剤だ。捕らえるのに毒矢を用いたと聞いている」
腕の痺れは毒のせいか。
黒い丸薬が入っていた。鼻を近づける。臭いはしない。が、これが毒でないと信じる根拠がない。ソラは投げ返し、ついでに唾も飛ばす。
貴様!と、従卒がいきり立つのをチャラ・ハンは手で制す。
「毒はじきに抜ける。ところで、かの光はよほど体力を消耗するようじゃな」
「光?」
「覚えておらぬのか。天を焦がすほどの赫き光よ」
はっとソラの表情が強張る。
そうだ、得体のしれない飛び道具にライが斃れた――。
「ライ、ライは、ライはどこにいる」
「ライとは?」
皇鄭は従者を振り返る。
「北壁の雷虎のことであります」
ああ、と頷くと、不穏な笑みを浮かべる。
「虎と暮らしていたそうだな」
ソラは答えない。代わりに、砂漠の太陽に眸をぎらつかせ睨み返す。
剥き出しの青い敵意にチャラ・ハン鄭は、片頬を軽く歪め笑む。
コーダ・ハン国の騎馬隊は、牙軍団と周辺諸国から恐れられる。その精鋭を統率し、砂漠の烈帝の名をほしいままにするチャラ・ハンにとって、子どものソラを御すなど砂漠馬を操るよりたやすい。
「北壁を統べる雷虎が雌だったとはな。ノリエンダの獣は皆、玉なしか」
言葉で弄び挑発する。
「虎の乳はうまかったか?」
ソラは鉄格子に跳びかかる。が、足枷に阻まれ届かず、無様に床に叩きつけられた。
檻の隅に転がる皿にチャラ・ハンはわざと視線を向ける。
「肉はうまかったか」
ソラは喉の奥で低く唸る。
「さぞや乳の甘いにおいがしたであろう」
どういう意味だ。ソラはまだ靄のかかっている頭を振る。ひと口で平らげた肉は、砂漠の熱気に腐敗が進み、死臭がしていた。
顔をあげると、烈帝が眸の奥で嘲笑っている。
「共食いとは、さすが獣よ」
ソラの脳に稲妻が走った。
あれは、あれはライの肉だったのか。俺はライの肉を喰らったのか。あの逞しい筋肉を咀嚼したのか。白銀の背に跨りしなやかな脇腹の鼓動を内股でつかむ感覚が腿ももに甦り、気が狂いそうになる。
胃が激しく逆流する。胃底から大きなうねりが圧し上がり嘔吐くのを、ソラは奥歯を噛み締めて堪えた。ライの肉は異物でも汚物でもない。吐くな、吐くな、吐くな。暴走する躰を捻じ伏せんと脳が命令する。貪り喰らった己の口を切って捨てたい衝動が突きあがる。喉を胃をむしり取りたい。犯した罪を吐き出したい。だが、吐いてはライを吐瀉物に貶めることになる。己への嫌悪で身の裡が引き攣る。
腔中にせり上がる酸っぱい胃液を力づくで呑み込むと、代わりに両の眦が決壊した。
うぉおおおおおおおおおおおお。
ソラは胸を掻きむしり、吼えた。
その雄叫びが砂の大地に轟くのと同時に、ソラの全身が閃光を発した。あたりを薙ぎ倒す光が迸り、たちまちに焔よりも黒く赫い光の柱が天を衝いた。赫々と禍々しき光の柱が砂漠の空を貫く。檻の天井は、光の威力に一瞬にして遥か彼方まで吹き飛び、鉄格子は外側に大きく婉曲しだらしなく倒れた。
光の柱は天を射抜いたとたんに消え、ソラは昏倒した。
「すばらしい威力だ」
四人の騎士たちはチャラ・ハン鄭の盾となるべく、その玉体に折り重なり、眼前の光景に声を失っていた。さすがは精鋭の近衛とあって、とっさに皇鄭の四囲をきちりと包囲した動きはみごとであったが、盾を構えるが精一杯で皆、呆然と天を仰いでいた。
「思うたとおりか、発動の契機は怒りだ」
チャラ・ハン鄭が声を昂らせ立ち上がる。
「こやつの力を使えるように仕立てよ」
光の柱は消滅していたが、まだ、誰も近寄ろうとはしない。
茫々とした砂の海に、力尽きたソラが横たわっている。
「よいか、力を目覚めさせろ。ただし、怒りのままに発光するようでは、こちらが危険だ。うまく飼いならせ。兵器として自在に制御できれば、ノルテ村攻略の突破口となる。他国に知られてはならぬ。極秘で進めろ。やつを捕らえたノリエンダの山賊の口も封じておけ」
それだけ言い捨てると、チャラ・ハン鄭はひらりと騎乗する。
砂漠馬の脇腹を鐙で蹴ると、嘶きを残し、白い衣を翻して駆ける。
砂塵が煙幕を曳いて濛々と追いかけていく。
第4幕「流離」 第16章「ソラ」
<完>
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