見出し画像

北海道旅日記⑤~バレー部は苦も楽もあり

大学も創成期

大学は、当時まだできてそれほど経っていませんでした。私の入学前ですが、一度火事で焼けています。

 部室も生協の食堂もプレハブで、雨の後は床がざらざらしました。今は建物もとても立派になっており、全く違う大学です。一度訪れましたが浦島太郎状態。ただ、チャペルだけは当時のままでした。


満身創痍の初練習


 
 入学してすぐに、バレー部の人から声をかけられました。高校でバレーをやっていたという情報が入るのですね。「練習していかない?」と言われて、その日に体育館に行きました。よく行ったと思います。

  ジャージを貸してもらって、靴も貸してもらって練習に参加しました。途中で滑り込んだ瞬間に誰かと頭がぶつかりました。

  高校での練習からすっかり離れていて、筋肉も何もおとろえています。次の日、全身筋肉痛、頭のぶつけたところが痛いし、靴は足にあっていなかったので、足先も痛いし、それこそ頭のてっぺんから足先まで、全身すべて痛くてたまらんという状態でした。

  なぜ入部を決めたのかは忘れました。初めから入ろうと思っていたのか、誘われて断れなかったのか。どっちかな。小さな大学の小さなバレー部ですから、一学年数人ずつです。4年生の先輩はみんなやめていて誰もおらず、3年生がキャプテンをしていました。


 それなりに頑張っていたのですよ。人数少ないからもちろんレギュラー。合宿も行ったし、春休み強化練習がきつかった!
 
その3年生が4年生になった最後の試合で、体育科のある強豪チームから1セットをとるという快挙を成し遂げました。負けは負けでしたが。終わった後、その4年の先輩が抱き合って喜んでいたのを覚えています。



 そして、私が最上級生になったら、その年代は私一人になっており、人数も少なく、成績はがた落ち。リーグ一部からの降格も経験しました。

 この入れ替え戦の時、監督でも何でもなかったのに、当日何も言わずに来てくれてベンチに入ってくれたのが、例の脳出血で倒れた先輩だったのです。ちなみに男子の先輩です。

代わりに授業に出るの巻


だから、とてもお世話になっているのですが、同窓会の日、思い出したことがあります。先輩の代わりに授業に出たのです。

 当時、大教室での出席確認は、授業の最後に出席カードを配り、それに学籍番号と名前を書いて提出するというものでした。私はバイトで忙しい先輩に頼まれて、何回か出席したことがあります。「お世話になったけど、お世話もしていたなあ」と思い出したのでした。


  女子バレー部は存続しているようなので、私も一応の役割は果たしたのかと思っています。やめた同年代の仲間とは、年賀状だけですが繋がっています。


北大キャンパス

*見出しイラストはお借りしました。まさしくこんな感じだったかも。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?