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それでも山頭火を愛せるか

 山頭火が好き

 
 今まで種田山頭火のことを、さんざん「好き」と言ってきました。
彼の作る自由律俳句が好きで、
新山口の駅前にある旅姿の銅像を、行く度に詣でていました。

  この前図書館で借りてきて読みました。

  「恋・酒・放浪の山頭火」
     ~没後70年目の再発見 石 寒太著

ああ、私は全然知らなかったんだ。
 山頭火が、どんな人生を送ったのか。
どんな放浪をして、どんなふうに句を作ってきたのか、どんな最期だったのか。

  この本を読むまで、詳しいことを知りませんでした。
ちょっとした衝撃でもありました。
感想を書いていきたいと思います。内容にもふれています。




改めて、種田山頭火について


1882年(明治15年)山口県佐波郡(現在の防府市)生まれ。
各地を放浪しながら1万2000余りの句を詠んだ。萩原井泉水門下。同じ門下の同人、尾崎放哉と並び称される。山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や支援者の援助に寄って生計を立てていた。その基因は、11歳の頃の母の投身自殺(井戸に身を投げた)にある。

(Wikipediaより)

  

 「放浪」は知っていました。句碑もあちこちにあります。でも、母のことと酒癖については初めて知りました。(初めて知ったことが多すぎる)

 経歴を見ると、母のこと以外にも家業は破産、父は行方不明、弟が自殺。自身の離婚(別れさせられた?)など波乱があり、充分につらいものだったと思います。

 このあとも衝撃的です。

  敬愛する尾崎放哉の死を知った3日後、旅に出ます。
それからは本当に放浪です。全然落ち着きません。帰ってきてはまた出ていきます。


新山口駅前で



 山頭火の足跡の地図が載っていました。
全部歩いたわけではないと思いますが、鹿児島から平泉あたりまで、これだけ放浪したのかと驚きます。四国遍路にも行っています。


行乞と酒

sositesosite
「行乞(ギョウコツ)」というのだそうです。

 意味は「僧侶が乞食をすること」
まさにそれです。

 山頭火は出家得度しています。お金がありません。
行乞しても、うまく行かないことも多く、木賃宿に泊まったり、それもできなかったら野宿です。


 そして、どんなときでも、どうしても無くてはならなかったのが、「酒」です。生涯手放すことができませんでした。

アルコールがなければ生きてゐられないのだ、むりにアルコールなしになれば狂ひさうになるのだ。

P143。昭和11年の日記より引用



 酔っては騒動を起こします。路面電車を止めたり警察のやっかいになったり。そんなことしていたら、だれからも見放されそうです。
でも、山頭火には助けてくれる人がいたのです。

  これ、不思議でした。

 ある時は持ち金がなくなり、支援者に、郵便局留めでお金を送ってくれるよう依頼します。それを待って、出発したり、とうとう届かずに出かけて行くしかないときもあったとか。


 今回この本を読んで、こんなにも弱く、さまよい歩き、酒に溺れては金を無心する男ってどんなんよ?と思ったのも正直な気持ちです。


 本中で、脚本家の早坂暁氏の一文を載せています。その中で早坂氏は「山頭火は泣きながら歩いていたのではないか」と書いています。

  「さびしい道を蛇に横ぎられる」

 早坂氏はこの句をあげ、「蛇にも無視されているなと感じたとき、山頭火はぼんやりと途方に暮れていたのだろうと思います」と。

尾崎放哉と井上井月



 先ほど書きましたが、山頭火が敬愛していた自由律俳人に、尾崎放哉がいます。同じ萩原井泉水の門下で、「層雲」に参加。放浪し、貧窮のうちに病死した点でも共通しています。

 井上井月は、幕末から明治にかけて30年ほども信州伊那の谷間を放浪した俳諧師です。井月は欲求も過去も、世のすべてを徹底的に捨て切って放浪し、野垂れ死にします。


 山頭火は、井月のように、捨て切った放浪を目指しますが、そこまで徹底できなかった。

 『煩悩の深みに足を引っ張られ、酒に溺れて、人々に迷惑をかけては、またそんな自分を責めるといった連鎖から抜け出すことができない』

(P32より引用)


 でも、改めて山頭火の生涯を思うとき、こんなにも自分に正直で、酒がなくては生きていけず、弱くて、それを隠さず、純粋で煩悩を抱える山頭火に惹かれていくのがわかりました。

 誰にだって、弱さはある。全てを捨てて逃げ出したいときもある。「そんな自分も自分だよな」と思います。


山頭火は「行乞記」を残しています。そこから。

 所詮、乞食坊主以外の何者でもない私だった。愚かな旅人として一生流転せずにゐられない私だった。浮き草のやうに、あの岸からこの岸へ、みじめなやすらかを享楽してゐる私をあはれみ且つよろこぶ。
 水は流れる。雲は動いてやまない。風が吹けば木の葉が散る。(中略)それでは、二本の足よ、歩けるだけ歩け、行けるところまで行け。

文中P93より引用

山頭火の俳句は寂しさと開放感



 そして何より、山頭火には才能があった。こんな山頭火にしか詠めない句の数々。
私が惹かれたのも、その自由律俳句の世界です。

 私が好きな句もたくさん出ててきましたが、それがどういう状況の時に作られたものかがわかるので、いっそう胸に迫ってきました。

 「分け入っても分け入っても青い山」

 出家得度し、堂守になったものの、そのさみしさに耐えかね、また旅に出たときの句。代表句のひとつで、山頭火自身も気に入っていたとのことです。

 「すべってころんで山がひっそり」
   
 「酔うてこほろぎと寝てゐたよ」(酔って野宿する)
  
 「ころり寝ころべば青空」

 「まったく雲がない笠をぬぐ」(新山口駅前の銅像の句)

 これらの句には、放浪の寂しさと共に、開放感も感じられます。どうしようもなくて放浪に出たけど、寂しくて情けない。酒、酒が飲みたい。でも誰にも邪魔されず思いのままに歩いている。そんな姿を勝手に想像しました。

 山頭火は生涯1万2千もの句を詠んでいるそうです。特に晩年は多作。
これらの句を続けて読むと、なんだか詩のようだとも思いました。

山頭火の最期は幸せだったか



 各地に句友がいました。行くとみなが歓迎してくれています。山頭火の才能は認められていました。そしてその人間性は、みんなに愛されていたのではないかと思います。(家族以外に、かもわかりませんが)

 放浪の末に病死とありますが、その最期の日は、終の棲家になった「一草庵」でした。
 句会が行なわれていましたが、山頭火はその数日前から体調が悪く、顔を出していません。みんな「また酔っ払っているのだろう」と声も掛けずに帰っていきます。

 そのあと、気になった支援者の高橋一洵が戻ってみると、もう事切れていたそうです。死因は「心臓麻痺」。59歳。昭和15年(1940)のことでした。

  だから、私は山頭火は、句友たちがわいわいとやっている声を聞きながら逝ったのであれば、穏やかな気持ちだったのではないかと思うのです。これが私の人生だったのだと、澄んだ気持ちで。

 

最後に

 私が山頭火を知るきっかけになり、気に入っている句を最後に紹介して終わりにしたいと思います。

 「ちんぽこもおそそも沸いてあふれる湯」(湯田温泉にある句碑)
(この句、書いてもいいですよね。句碑にあるくらいだから)

 山頭火は酒と山と、そして温泉が好きでした。自由でダイナミックな句と思います。

 タイトルは大仰ですが、ふと頭に浮かんだのでそのままにします。
愛ではないけど、もっと好きになりました。
 
「朝湯こんこんあふるるまんなかのわたし」
「うしろすがたのしぐれてゆくか」
「笠にとんぼをとまらせてあるく」

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