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戦争を通して想うこと

※以下は独断と偏見によるものです。特定の個人について述べたものではありません。あくまで一般論として捉えてください。

【本文】

先日、CODWWⅡキャンペーンをクリアした。
戦争映画、ドラマ、ゲームは色々触れてきたが、大人になり歳を重ねても未だに新鮮な感情を抱く。
人は社会的でありながら排他的な生き物なのだと。

メタルギアソリッド3でザ・ボスは「敵とは相対的なもの」だと話していた。同じ人間であっても時代によって、為政者によって味方にも敵にもなり得るのだと。だから、任務という普遍のものに忠を尽くすのだと。

もし、今後原理主義に立ち返る機会があったとして、皆が平等の条件に立たされたとしても、いずれは自己の利権を最大化し、正当化するために敵を作ってしまうのだろう。自分を優位に見せるには他人を貶めることが手っ取り早いからである。

生き物であるからには、個体差が明確に存在する。法律の下では社会的平等が謳われてはいるが、現実としてはほとんど機能はしていない。都市部で公助が普及したとして、果たして町村部はどうか。
実際には公助を補う形で共助が発達している。

では、共助が発達している箇所と公助が整備されている箇所では何が違うのか。
住民同士の共同体意識の有無である。

社会学においても、現代社会に移行するにつれて共同体意識が希薄になっていると述べられている。
同時に他人を「愛すべき人」ではなく「道具」として見なすことが増えているだろう。
一定規模の人数がいながら、その実情は大きく異なる。

CODでは戦争における戦局や立ち回りを体感できる。向き合っている人間は、本当の意味で敵なのだろうか。
戦争従事者のほとんどは「批難されない」ために戦っていた。彼らは自分で敵を選んだ訳ではない。権力を持つ者が是と言えば、どこかのとある場所に住む人間を敵と見なすことを半ば強制されるのだ。

この世界は相対化により成り立っている。
自己と他者との差別化は民主主義の許容しているところである。
しかし、差別化は加速し排除へと変容する。
排除の例は無数に存在する。

権利擁護や差別化を履き違えて、不必要に攻撃的かつ排他的になる世界。
意図的に第三者を敵と断じてしまう世界。
かつては戦争がその一端を担っていたが、現在は電子上で攻撃が繰り返されている。

決して油断することはできない。我々も戦いの当事者なのだから。




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