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“講演文学”の名手は、講演嫌い

『小林秀雄全作品』全32巻を通読する。しかし『私の人生観』という作品をこじらせているから、まずは『私の人生観』を、あきれるほど丁寧に読んでいく。そう宣言しておきながら、先に「講演文学」ともいわれる、そのリズムやメロディーを感じさせる小林秀雄の文体の秘密を探ってみた。

そろそろ本題に入ろう。『小林秀雄全作品』第17集、p136である。

『小林秀雄全作品』17

繰り返すが、『私の人生観』は、後に小林秀雄みずから加筆しているとはいえ、1948(昭和23)年11月におこなった講演がもととなっている。会場に聴衆はいる。戦前から著名だった小林秀雄という批評家を、どうだ、一目みてやろう、話を聞いてみようと、聴衆は期待を込めて足を運んだに違いない。それなのに、いざ話が始まってみると、聴衆はまるで冷や水を浴びせられたように感じたかもしれない。

どうも私は講演というのものを好まない。だから、今迄に随分講演はしましたが、自分で進んでやった事は先ずありませぬ。みんな世間の義理とか人情とかの関係で止むなくやったものばかりです。

『私の人生観』

ぽかんと口を開けてしまう聴衆が目に浮かぶようだ。かるい憤りを覚える人もいれば、冗談がうまいなあと苦笑いしてしまう人もいただろう。「講演文学」の名手は、実は講演嫌いだったのだ。

『私の人生観』の講演が録音されていたかどうかは確かめようがない。しかし、『小林秀雄全作品』の発行元である新潮社は、かつてはLPレコードで、そしてカセットテープ、いまはCDで、小林秀雄の講演音声を供している。

小林秀雄講演CD第四巻 現代思想について

もっとも古いもので1961(昭和36)年8月で59歳、晩年では1980年(昭和55)年5月で78歳の講演音声を聴くことができる。そこでも、小林秀雄の「肉声」で、講演嫌いが語られている。

もう私、あんまり理屈いうの、飽きちゃったし、いろいろの講話なんて本当にもうつらいから、何か雑談みたいなことで、よろしいござんすかと。よろしいってんで、それじゃあ、何か雑談で勘弁してもらいたいんです。

小林秀雄講演CD第一巻 文学の雑感(文字おこしは筆者)

こういう講演は、あんまり私は好かないから、みんな断っているんだが、私はなにも自分のことを何かしゃべろうという積極的なものは何も持っていない。無論私は文士ですから、自分の仕事は一生懸命やっておりますが、しゃべるほうは私の商売じゃありませんから、いっこう一生懸命になったことはない。それで結局、私の話は雑談みたいな形になります。どうかそのつもりでお聴きください。

小林秀雄講演CD第四巻 現代思想について(文字おこしは筆者)

みずからの講演を「雑談」だと称する。一種の謙遜とも考えられるが、若い頃から愛読している哲学者のベルクソン論を『感想』と題したことを思い出す。本気でそう考えているのかもしれない。

『私の人生観』では、その後、きちんと小林秀雄の心情が語られる。

私が講演というものを好まぬ理由は、非常に簡単でして、それは、講演というものの価値をあまり信用出来ぬからです。自分の本当に言いたい事は、講演という形式では現す事が出来ない、と考えているからです。

『私の人生観』

小林秀雄は、批評や随筆でも、こういった講演でも、みずからを「文士」と称する。現代では「作家」「小説家」「文筆家」であろう。そんな「文士」の矜持として、小林秀雄は話すことよりも、書くことをなによりも重視した。それは、『私の人生観』のような講演録にも、妥協を許さず、徹底的に加筆したことにも表れている。

のちに小林秀雄は、まさに『喋ることと書くこと』という題名で、講演を作品にしている。その冒頭で、講演録に加筆していることを、素直に認めている。

私は講演をずい分活字にしておりますが、本で私の講演を読まれた方は、私が余程上手な講演をしている様にお感じになるかもしれない。だけど、それはみんな嘘なので、あれは後ですっかり直すんです。つまり、さも巧い講演をした様な感じをどうして読者に与えようかといろいろ文章に工夫を凝らしているわけで、工夫をしていると、ところどころに括弧をして、笑声とか拍手とか書きたくなる程である。

『喋ることと書くこと』

事実、いまは触れないが、やはり「講演文学」ともいえる『信ずることと知ること』という作品では、1974(昭和49)年8月、鹿児島・霧島における全国学生青年合宿教室の講義がもととなっていて、これが『小林秀雄講演第二巻 信ずることと考えること』において音声を聴くことができる。そして『学生との対話』という書籍では、その講義の文字おこしも収録されている。つまり、講演音声、講義録、そして小林秀雄が加筆した決定稿の3つが比較できる。その違いは大きい。

閑話休題。自分の本当に言いたいことは、講演という形式では現わすことができないという小林秀雄は、さらにその理由を詳しく述べてから、講演の課題として提示された「私の人生観」に結びつけている。

私は、書くのが職業だから、この職業に、自分の喜びも悲しみも託して、この職業に深入りしております。(中略)私は書きたい主題は沢山持っているが、進んで喋りたい事など何もない。喋って済ませる事は、喋って済ますが、喋る事ではどうしても現れて来ない思想というものがあって、これが文章という言葉の特殊な組合せを要求するからであります。若し私に人生観というものがあるとすれば、そちらの方に現れざるを得ない。従って、私の人生観というものをまともにお話しする事は、うまく行く筈がないから、皆が使っている人生観という言葉についてお話ししたい。

『私の人生観』

『私の人生観』の魅力は、リズムやメロディーを感じさせるその文体のもあるが、最たるものはやはり、言葉や思想が次から次へと連想・連鎖していくところにあると思う。講演が嫌いだという理由を誠実に説明しながら、それでも流れる、漂うように「私の人生観」という主題につなげていくその語り口に深く感心してしまう。

(つづく)

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