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絵よりも、人の一挙手一投足を書きたい

小林秀雄の作品には、よく「生活」という言葉が出てくる。

青山 だけど見たというのはどういう事なんだ? 見た喜び、そういうことはやはり積み重なっているんだからね、小林だって……。
小林 だけどそれは生活だからね、見た喜びというのは……。

『「形」を見る眼』(対談)

編集部 兼好なんかあの時代をどういうふうに見ておったか。とにかく神道もやり、そうして仏教をやり、道教をやり、相当思想的にはひろくわたっておりますね。
小林 あの人の生活、よく分かっていないのですが。

『古典をめぐりて』(対談)

文学や詩についての文章では絵が浮かぶように書けているのに、絵画論のときは、まるで絵が浮かび上がらず、結局は画家に焦点があたっているじゃないかと、対談『「形」を見る眼』において、小林秀雄は美術評論家で骨董の師である青山二郎に指摘されている。

当初はそれは自分の筆力がないせいだと小林秀雄は語るが、最後には、絵はいらない、人の一挙手一投足が芸術であり、それを書きたいのだと認めている。つまり、小林秀雄が書きたいのは、ゴッホなり、富岡鉄斎なり、本居宣長なり、人生というよりもむしろ「生活」なのではないだろうか。

『私の人生観』の2年後に、独立し作品として発表した『雪舟』において、小林秀雄は雪舟の生涯を知りたいと思って伝記を読んだものの、確実な事跡が少ないことに驚き、すでに知っていることを覆すほどのことはなかったという。それが、『私の人生観』においても、雪舟への言及が少なかった理由ではないか。

そして、新たに得るものがなかったことが、『雪舟』では逆に、小林秀雄の「観る」を深めていく。

考証は、却ってこの人物を益々私の眼から遠ざけ、謎めいた姿にして行く様子であった。雪舟がはっきりと生き返り、私に近づくのは、画からである。「山水長巻」を見て、私は雪舟に出会う。

『雪舟』

もし、小林秀雄が雪舟の「生活」に触れることができたならば、どんな『雪舟論』を書いただろうか。

(つづく)

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