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『私の人生観』にはメロディーがある

小林秀雄『私の人生観』は、〈です・ます〉の敬体と〈である・だ〉の常体が混在している。しかし、読みやすい。その謎を解き明かしてくれたのが、平尾昌宏『日本語からの哲学――なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか?』と、柳父章『日本語をどう書くか』である。

その『日本語をどう書くか』において、小林秀雄の敬体・常体混用文について、柳父はこう指摘している。

小林秀雄の書いたものは、どれも難しい。が、その中で、やはり言っていることは難しいのだが、意外に読みやすい文がある、と前から感じていた。『私の人生観』という作品である。その一節を引用してみよう。文章の流れの互換、とくにその文末に注意して見ていただきたい。

柳父章『日本語をどう書くか』

これに続いて、「観といふのは見るといふ意味であるが、そこいらのものが、電車だとか、犬ころだとか、そんなものがやたらに見えたところで仕方がない」という調子で引用されている。そのうえで、

まず一読して、文章にリズムというかメロディーとも言うべき流れがあって、それが、文章を分らせる、という働きとともに、うったえてくる、説得してくる、ということが感じられるであろう。これは相手のいる文章なのである。

柳父章『日本語をどう書くか』

と指摘する。さらに引用文に三つある敬体の意味や、常体との印象との違いを分析する。最後に、

小林のこの文藻は、敬体と常体の使い分け、さらに句点・読点の微妙な使い分けによって、おそらく自ずと、日本文の生きたリズム、メロディーをとらえていたのであろう。

柳父章『日本語をどう書くか』

と締めくくる。

この部分を参照して、先に言及した平尾は「〈である体〉でいわば沈思黙考し、〈です・ます体〉で聴衆・読者に向き直る」と読み解いたのだ。

では実際に、先の柳父が引用・分析した『私の人生観』とは別の段落を丸まる引用して、私も実際にこの読解をあてはめてみる。

美しい自然を眺めてまるで絵の様だと言う、美しい絵を見てまるで本当の様だと言います。

〈です・ます体〉⇒聴衆・読者に向いている

これは、私達の極く普通な感嘆の言葉であるが、私達は、われ知らず大変大事な事を言っている様だ。

〈である体〉⇒小林秀雄の沈思黙考

要するに、美は夢ではないと言っているのであります。

〈です・ます体〉⇒聴衆・読者に向いている

併し、この事を反省してみる人はまことに少い。それは又こういう事になると思う。海が光ったり、薔薇が咲いたりするのは、誰の眼にも一応美しい。だが、人間と生れてそんな事が一番気にかかるとは、一体どうした事なのか。現に、会場に絵を並べた二人の画家は、四十何年間も海や薔薇を見て未だ見足りない。何という不思議だろう。そういう疑問が、この沢山な鑑賞者のうちの誰の心に本当に起っているだろうか。

〈である体〉⇒小林秀雄の沈思黙考

そういう疑問こそ、絵が一つの精神として諸君に語りかけて来る糸口なのであり、絵はそういう糸口を通じて、諸君に、諸君は未だ一っぺんも海や薔薇をほんとうには見た事もないのだ、と断言している筈なのであります。

〈です・ます体〉⇒聴衆・読者に向いている

私は美学という一種の夢を言っているのではない。諸君の眼の前にある絵は実際には、諸君の近くの根本的革命を迫っているのである。

〈である体〉⇒小林秀雄の沈思黙考

とすればこれは、驚くべき事実ではないのですか。

〈です・ます体〉⇒聴衆・読者に向いている

見事だ。見事に〈である体〉=小林秀雄の沈思黙考と、〈です・ます体〉=聴衆・読者に向いているという構造が当てはまる。

小林秀雄『私の人生観』の読みやすさ。難しいけれども、寄せては返す波のように響いてくる不思議さは、〈です・ます〉体と〈である・だ〉体の混用にあったのだ。

(つづく)

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