見出し画像

小林秀雄の“講演文学”が心地よい

例に漏れず、受験勉強の評論文で小林秀雄にほとほと懲りて、不惑をはるかに過ぎてからようやく味読できるようになった「遅い」読者である。それでも、どこか読後にざらつきがあり、繰り返し手に取っては読んでいる小林秀雄の作品が三つほどあることに気付いた。『美を求める心』『信ずることと知ること』そして『私の人生観』である。

どうしてだろうと考えてみたところ、いずれも講演録に後から加筆した文章なのだ。道理で自分に語りかけてきて、鈍い頭にも染み入るような響きがある。のちに講演CDも全巻入手してみたら、『信ずることと知ること』の講演そのものが聴けて嬉しくなった。聴衆である大学生に自分が混じっている気分になり、なぜか懐かしさまで感じてしまう。

小林秀雄講演CDは全8巻。自動車通勤の友である

さて、三つの作品とも、講演録に小林秀雄みずから加筆しているので、講演調の〈です・ます〉つまり敬体と、加筆した書き言葉である〈である・だ〉すなわち常体が混在している。小中学生の文章作法ならご法度なものが、なぜか心地よい。あるところでは、それを小林秀雄の「講演文学」とも語っていた。

書物といえば、書き言葉である〈である・だ〉の文体が一般的だ。なかには、異なる分野の専門家が社会や文化について語り合う対談本や、先生役と生徒役になって技能を学んでいく講義形式の本が〈です・ます〉の文体なのは分かる。さらに、ビジネス書や自己啓発書に多いのが、敷居の低さと丁寧さを演出するために〈です・ます〉体を用いて、やたら改行や空白行を挿入している書籍が昨今のはやりらしい。

しかし、〈です・ます〉の敬体と〈である・だ〉の常体が混在している文章や書物は、一般的に少ないように思う。ましてや難解さで知られ、論理の飛躍や逆説の多用で敬遠されがちな小林秀雄の文章で、敬体と常体が混在しているのだ。それなのに、読みやすい。

この不思議さを抱きながら、たまたま手に取ったのが、平尾昌宏『日本語からの哲学――なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか?』である。

平尾の書籍はもともと〈です・ます〉体で書かれている

大学における哲学・倫理学の講師をしている平尾は、学会での講演が好評を得て、その講演を論文にして学会誌に寄稿することを求められる。講演の趣を残すために〈です・ます〉体で書いたところ、掲載前の査読でその文体が認められなかったことから、表題である「なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか」を探求していく。

その過程で、まだ明確な形にはなっていない考えを記す「ノート」というページにおいて、敬体・常体混用文について言及している。

…意図的に使い分けられているのであれば、〈である体〉と〈です・ます体〉の混在は問題なく認められると考えるのである。例えば、〈です・ます体〉ベースの文章の中で、書き手の自己内で完結する推論を展開した部分だけを〈である体〉で書く、といった具合である。

平尾昌宏『日本語からの哲学――なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか?』

そして、この補注として、翻訳論の研究者である柳父章『日本語をどう書くか』を参照して、こう述べている。

小林秀雄の文章を基にして、〈である体〉でいわば沈思黙考し、〈です・ます体〉で聴衆・読者に向き直る…

平尾昌宏『日本語からの哲学――なぜ〈です・ます〉で論文を書いてはならないのか?』

実は、この柳父章『日本語をどう書くか』はしばらく前に読んでいる。だが、小林秀雄に言及しているとは、まったく気付かなかった。あわてて書棚から取り出してみる。

2020年に文庫化され、手に取りやすくなった柳父章『日本語をどう書くか』

小説をのぞいて、読書の際には気になったり、納得したりした箇所に付箋を貼っている。さらに小林秀雄や池田晶子の著書では、付箋を貼ってからノートに抜き書きすることもある。

この『日本語をどう書くか』にも付箋を貼って読んでいったが、その小林秀雄の敬体・常体混用文についての部分には、何の形跡も残っていなかった。まったく。たぶん読みながら居眠りでもしていたのだろう。

(つづく)

まずはご遠慮なくコメントをお寄せください。「手紙」も、手書きでなくても大丈夫。あなたの声を聞かせてください。