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「人生観」という言葉はどこからきたのか

『私の人生観』という作品の書き出しはこうだ。

この前ここでお話しを依頼された時、「私の人生観」という課題を与えられました。急病で御約束を果せず、主催者の方に御迷惑をかけたが、私としては、講演などするより、勝手に独りで病気でもしている方が余程気が楽だった。

『私の人生観』

『私の人生観』のもととなったのは、1948(昭和23)年11月、東大阪新聞社主催の「第二回聴く文庫」という講演会だ。同社が発行していた「夕刊新大阪」は学芸蘭に力を入れていて、小林秀雄は前年1月に横光利一との対談である『近代の毒』が掲載され、9月に『文芸時評について』、同年には『骨董』を寄稿している。

先に予定されていた講演が小林秀雄の急病によって実現しなかったというのは、年譜からは確認できなかった。それでも、この『私の人生観』という主題は、小林秀雄の意志ではなく、主催者側の意向だったといえるだろう。

だからこそ、小林秀雄は何を話したらよいか思いを巡らす。「人生観」とは何か。この言葉は、西洋的な近代思想が日本に入ってきてから、広く使われるようになったと推察している。

国会図書館のデータベースによれば、「人生観」という言葉が雑誌や書名に使われたのは1893年以降。たしかに哲学関連の記事や講演名に繰り返し登場している。

さらに小林秀雄は言葉を継ぐ。

或る人の説によると、オイケンのLebensanschauungenが人生観と訳されて以来、人生観という言葉が広く使われる様になったと言うが、Lebenは人生だがAnschauungという言葉は観とは余程違う様だ。

『私の人生観』

ドイツの哲学者であるルドルフ・オイケンは1890年に『Die Lebensanschauung der grossen Denker』を発表。先の国会図書館のデータベースによれば、1902(明治35)年2月の雑誌に、この書名の日本語訳である『大思想家の人生観』が登場する。同年4月、小林秀雄はこの世に生を受ける。

そのオイケンの『Die Lebensanschauung der grossen Denker』を、後に文部大臣や学習院の院長を務めた安倍能成が翻訳し、1912(大正元)年に『大思想家之人生観』として発表した。安倍能成と小林秀雄は同じ旧制第一高等学校を経て東京帝国大学に進んだ同窓だが、19歳差でもあることから、交友があったかどうかは分からない。ただ墓地はいずれも神奈川県鎌倉市にある東慶寺にある。

『大思想家之人生観』(これは1914年版)

『大思想家之人生観』の目次には、西洋哲学を代表する思想家の名前がずらりと並んでいて、さらなが西洋思想家案内のようだ。また、安倍はオイケン自身の思想も紹介したことで、大正期の思想界に影響を与えたという。そんな事情から、小林秀雄が『人生観』という言葉の広がりを、まずはオイケンに見たのだろう。

小林秀雄は講演嫌いを公言しているが、やはり与えられた課題でも、事前にしっかりと準備していたことがうかがえる。小林秀雄講演CDでは、何を話そうかと事前にメモを用意しているとも話している。

こうやって「人生観」という言葉の由来を紹介したものの、その違和感から小林秀雄は「観という言葉には日本人独特の語感がある」と付け加える。そんな「観」という言葉をめぐり、小林秀雄の発想や知識の連鎖がここからはじまる。

(つづく)

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