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【12/13】第6章「自由」:決定論と自由は両立する。(戸田山和久『哲学入門』を読む⑥)《基礎ゼミレポート》

第6章で扱われるのは「自由」です。自由は、日常的な生活に直結するものであると同時に、これまでの哲学や形而上学においてさまざまに論じられてきたテーマです。

本章ではまず、自由意志を否定する伝統的な立場として、すべては神によって決められているとする神学的決定論と、わたしたちの行為は外的環境からの入力と内部メカニズムによって決定されるとする「メカニズム決定論」が説明されます。そして、自由と決定論の対立をめぐり、①非両立論②両立論があり、①のヴァージョンとして①‐A「リバタニアリズム(libertarianism)」=人間の行為に関しては決定論は誤り①‐B「ハードな決定論(hard determinism)」=自由意志は幻、があるとされます。著者の戸田山氏の立場は、両立論を採りつつ、用心としてハード決定論が正しかったときに倫理がどうなるのかという問題を考えるというものであることが述べられています。

本章で肯定的に取り上げられるのは、わたしたちの自由意志概念を改訂するデネットの議論です。これまでの自由意志概念を脱神話化し、残った自由意志の概念こそが、わたしたちが望むに値する自由意志だということを主張するという戦略です。

さて、自由意志概念は、他行為可能性(違うようにもできた)自己コントロールが関係しています。因果的な決定論を避け、自由意志の存在を論証するのに、量子力学の確率的法則が提示されることがありますが、戸田山氏は、それがミクロレベルの非決定性であり、マクロな行為主体である私たちの行為の非決定性に直結させるのは難しいこと、さらには、偶然によって生じた行為は必ずしも自由な行為とは言えないことを理由にこの論証を退けます。

そして、戸田山氏は、「基本的には自由意志なるものは自己コントロールの能力に他ならない」(313)と議論を進めます。そして、コントロールする/コントロールされるということは、自由の否定ではなく、むしろ、外的環境や内的メカニズムによって行為がコントロールされるからこそ、行為を変更できるのであって、なんら自由を奪うものではないと主張されます。すなわち、決定論と自己コントロールとしての自由は両立するということです。


当日、参加者の方々との議論にもありましたが、果たして自由の問題を自己コントロールに限定して良いのかという疑問がありますが、まさに、これ以降の本章の議論は、この自由をベースに、合理性や道徳性といった概念をいかに付与するかという議論が展開されることになります。

次回、12月20日(火)22時からは、第6章「自由」321ページから引き続き読み進めていきます。次回が年内最終日となりますが、本章を読み切ることができそうですね。

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