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Dialogue_vol2|わたしたちは未来世代に何を遺したいのか

こんにちは、Deep Care Labの川地です。

第2回となる、想像をめぐらすおしゃべりの場・Deep Care Dialogueでは「未来世代への遺産」をテーマに開催しました。

わたしたちの生は、先人が遺してくれた遺産によって支えられています。
技術や文化だけでなく、思想や自然、安心安全な生活も、先人たちの努力の賜物です。それら先人たちの遺産の恩恵を今の私たちが享受しているのです。
...わたしたちは「よき先祖」として何を未来に遺していくことができるでしょうか?何を過去から継承し、現代に新しく生まれたものや出来事の中から何を遺していきたいでしょうか?もしくは、何を遺したくないでしょうか?
脈々と続いている苦々しさを断ち切るためにあえて過去からつないできたバトンを自分たちの代で捨てる勇気を持つということも必要かもしれません。
ーイベント紹介文より

前回同様、少人数の会でゆるっととおしゃべりするノリで進めていきました。サーキュラー・エコノミー関連のお仕事をしている方・教育に携わっていた方・遺伝子に関する研究者・都市系デザイナー・大学生..など様々なバックグラウンドの方々が参加してくださいました。まずチェックインにて、

会社で働いていると、短いスパンしか考えず遥か遠い未来を考える機会がない
子どもが産まれたのをきっかけに、50年後100年後の社会を考える必要性を感じた

といったモチベーションを共有。その後の話題提供では、こちらから以下のようなことをお話しました。

・遺産には、ポジティブなものもネガティブなものもある
・遺産と「贈与」には関係がある
・先祖からの遺産(食文化も技術もことばも)でいまの日常は成り立っている
・未来への遺産とブルーノ・ラトゥールがコロナ禍で問いかけた「何を中止し、なにを再開したいのか」という問い

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当日のスライド: 遺産のマトリクス

こうした切り口をもとに、未来に何を遺したいのかという大きな問いを抱えつつ、グループに分かれておしゃべりをしました。その中で、印象に残った一部をご紹介します。

100年後へ遺したいものは、すでにある恩恵に目を向けねば見えてこない

グループのひとつでは、最初に「これを未来に遺したくない・これはなくなればいい」を起点に考え始めました。そこには、官僚主義や空気を読む文化・生き延びるためだけの労働など、いろいろなものが出てきます。

次に「100年後にも遺したいもの」を考えました。出てきたひとつは還暦やお盆のかがり火といった風習。お盆の風習は、先祖を思い出すきっかけになり、まさに過去から未来につないでいくために重要なものです。また、還暦は「暦が還(かへ)る」とかくように「再生・生まれ変わり」つまり、流転への祈りです。何気なくやっている風習は、とても重要なものではないか、という話がでてきた一方で、元の意味がなくなり形だけのこっており、それは本当に継承されているといえるのか、と疑問もわきました。

ただ、「遺したいもの」に対しての意見は全然でてこずでした。これはどういうことなのか。現代社会は闇でおおわれ、希望が存在しなくなっている、という考えがひとつ。もうひとつは、日常で享受している恩恵が、当たり前になりすぎてわたしたちが目を向けられていなかった、という事実。

このことについて、おしゃべりの時間を終え、もうひとグループの共有を受けてより気付かされます。

もうひとつのグループは「わたしたちは何を祖先から受け取っているのか」から考え始めており、普段きいているクラシック音楽の文化も、万葉集などで詠まれた景色に感動するみずみずしい感性も、先人が確立したからこそだ、という話から出発していました。美意識だって贈り物なのです。筆者は京都に住んでおり、苔が大好きです。美しいなと思います。しかし、苔に美を見出した最初の日本人がいるはずで、今感じる美しさは筆者の主観であろうと、確実にそこから影響を受けているのではないか、とも思います。

「先人・祖先からの遺産」というと、重たく聞こえますが話題提供で話したのは「エビを最初に食べたやつやべー!」ってことです。エビ、大好きですが、よくみれば気持ち悪い脚がたくさんの生き物を、最初にエビを食べたご先祖がいなければ、今エビフライもパエリアも楽しむことはできないのです。この視点はとても重要です。

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おしゃべりのメモ

こうした、受け取っているものへの自覚から、「このような感性を遺していきたい」と未来への議論が発展していました。日常の当たり前のなかに、すでにたくさんの過去からの贈り物がありますが、わたしたちは簡単にそれを忘れてしまいます。そして、今の世の中の闇にばかり目がむいてしまう。これがだめだ、あれもだめだ、と。受け取っているもの・すでにあるものへ光を照らすのは、簡単なようで難しいのです。しかし、そこから始めることで、あらゆるものの見え方が変わり、目の前のものごとへの有り難さが湧き起こる。そして、先人への感謝につつまれ、その感謝をもとに未来への遺産に向き合えるのではないでしょうか。

「未来へコレを遺したい」は、可能性への祈りである

未来に遺したいものには、上記であげた儀礼やみずみずしい感性の他、都市の多様性なども出てきました。都市自体も、先人の発明です。都市化は環境や経済格差、もちろんコロナの公衆衛生面も初め、多様な問題にからみあう現象であり、もしかしたら負の遺産かもしれない。近年では都市は均質化していますが、可能性を拡げる複数の価値観がごちゃまぜである場でもありました。そうしたところからの恩恵だって受けていたはず。そのような都市の多様性は、可能性のうつわでもあります。それを遺していきたいという願いも有りました。

これら「遺したいもの」を眺めてみると、いま遺したいとおもうものは、消えかけている弱った光なのだということに気づきます。儀礼だって都市の多様性だって、みずみずしい感性だって、失われかけているものです。でも、遺していきたい。何をするべきかを考えるために、まずわたしたちの願いを自覚する、そんな時間となりました。最後の振り返りでは、キーワードに"祈り"ということばも出ました。

都市の例で見たように、ものごとには二面性が常に存在します。過去の先人の発明が、いまのわたしたちを苦しめている面もあります。そのような、負の側面も正の側面も受け止めたうえで、遺していくべきもの、断ち切りたいものを考えて、わたしたちは未来に紡いでいくことが必要なのでしょう。

それは、わたしたちの「未来のために遺したい」といった純粋な願いや祈りに基づいていたとしても、100年後のこどもたちからしたら負の遺産になり得るかもしれません。どれだけ想像をはたらかせたとしても、予想しきれないものです。どんな判断をすればいいのか、途方もなく感じるかもしれません。わたしたちに未来世代の生き方を決める権利はありません。

その難しさを抱きかかえながら、可能性をかたちづくり、未来に投げていくこと、それは祈りそのものでしょう。今回のおしゃべりを通じて、何を遺したいかというwhatそのものより、そうした態度やあり方を見つめる機会になったように思いました。

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参加者のみなさま

おわりに

未来を考えるために、まず過去を考える。未来世代のことを考えるために、まず祖先との関係に目を向ける。こうして、わたしたちは過去も未来も織り込んだ現在に生きています。すでにあるものに目を向ければ、自分をバトンだと考えやすくなるし、その上で未来への祈りを自然にささげられるようになります。

そして、このような問いを考えることは日々の中で難しくなっているのが現代社会です。だからこそ、Deep Care Labでは時間をとって立ち止まり、今ここの外側にある世界をまなざせる窓をつくるように、これからも場をつくっていきたいと思います。

暫定ですが、次回は「死者」とのかかわりを考えるような時間にできればと思います。興味があればぜひ初めてでもご参加ください。

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