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あらゆるいのちへのケアする想像力を。Deep Care Labの設立のお知らせ

本記事は元記事からアカウントの統合・整理のため転載しております。

先日、Deep Care Lab (DCL)という、一般社団法人を立ち上げました。川地真史と田島瑞希の2名による共同創業となります。「あらゆるいのちへのケアする想像力をはぐくむ」というパーパス(存在目的)を掲げ、複雑な課題に対峙するため研究と実践をかさねていきます。

本稿では、設立にあたりどのような問題意識をもっているのか、何を大事にしていきたいのか、なにをやっていくのか、をご紹介できたらと思います。

<私>と半径2mがよければ、それでいい現代

100年後の地球はどうなっているでしょうか。その世界に住む、孫やひ孫はどう生きているでしょうか。そんなことに想いを馳せることはなく、今日もわたしたちは生きています。食卓のカレーに入っている、にんじんやじゃがいもがどこから来たのかも知りません。スーパーにならぶ豚肉の、生きていたときのこと、殺され、解体されること、それを想像せず当たり前に購入します。

<今ここにいる私>であふれている社会です。もちろんマインドフルである<今ここ>はとても重要です。しかし現代は、ことなる意味での<今の私>になっていると感じます。それが、「今を生きる自分さえよければそれでよい」という感覚です。これは、あらゆる複雑な課題を引き起こす、現代の人間のあり方になってしまっているのではないか、と思います。

環境危機の話はとてもわかりやすく、わたしたちが「自分さえよければ」と思い、日々を生きた帰結ではないでしょうか。たとえば、現在は地球1.7個分、2030年には地球の2個分の資源が必要だといわれます。すでに0.7個分の資源を未来のこどもたちから前借りしていることになります。また、環境危機で絶滅にいたる動植物は100万種にものぼります。ミツバチは受粉により、私たちが毎日食べているあらゆる作物が育つことに一役買っていますが、絶滅に瀕しています。

未来に生きるこどもたちや、わたしたちのいのちを支えている動植物や昆虫を犠牲にして、現代のわたしたちは生きています。

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これは、構造的な問題でもあります。
政治は4年で交代し、仕事であれば四半期で評価し、株式なんてのは1秒単位の世界です。数分おきにくるアプリの通知に注意をうばわれます。情報の波にのみこまれ、目の前にとらわれざるを得ません。アテンション・エコノミーなんて言葉すらできてしまいました。想像力の射程はどんどん短くなり、時間は単調化している。これでは、100年後のみならず、10年後を考えることもままなりません。

これは、社会をとりまく物語の問題でもあります。
支配的な物語、こうあるべき、となぜか信じられている考え方や規範ともいえます。たとえば、「好きなことを仕事にする」「自分らしくあるのが大事」という規範。競争ではなくオンリーワンというメッセージが誤って広まり、個性をつくることが就職活動の場でも当たり前になっています。
しかし、<わたし>は<わたし>だけで生きているわけではありません。にもかかわらず、現代の風潮によって自分の枠組みに過度にとらわれ、自分への執着をどんどんと強めていってしまうのではないでしょうか。自己の枠組みにはまるため、その外にあるまなざしから自分を見つめ直すことがなくなり、枠内の見たいものだけを見るようになる、という悪循環です。

生かされていることに気付き、より大きな<わたし>になる

上記に対して、<わたし>をわたし以上のいのちとの関係の中で問い直すことが必要だと思っています。わたしなりの幸せや欲望を、わたし以上のいのちとの連関の中で、編み直していく=「自分の枠組みを超える」ことが求められているのではないでしょうか。

空海は、真言宗の教えとして<わたし>にとじた小さな欲ではなく、大欲をもてという教えを説きました。ここでは、<わたし>の中にあらゆる他者(いのち)を包み込んでいます。マズローの欲求5段階説はとても有名ですが、晩年では自己実現の先には自己超越があると述べています。ディープ・エコロジーの提唱者ネスは「自己実現」という考えかたを提唱します。拡大された自己、エコロジカルな自己、とも言い替えられます。

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Deep Care Labでめざす、<わたし>の拡大

利己的と利他的、ということばが対立のように話されますが、これが溶け合う境地があるのではないでしょうか。Netflixの「愛の不時着」では、恋人や仲間を守るために身を差しだすシーンが多く描かれます。それを自己犠牲というにはどうにもしっくり来ませんでした。<あなた>が傷つくから守る、ではなくて、<あなた>が傷つけば<わたし>も傷つく、この感覚ではないかと思うのです。ここでは<わたし>とは、<あなた>を含む<わたし>なので、利己と利他の区分は意味をなさないと感じました。

環境危機をはじめとした問題では道徳が求められ、そのために自分が我慢をすることが叫ばれます。たとえば、牛肉を食べないように、などもその一例です。しかし、無理をすることは決して長続きしません。その取組み自体が持続可能性をもちえません。おのずから湧き上がるような自然体を目指すことが重要です。絶滅しつつあるミツバチや切り倒される森や、未来に生きる子供たちを含んだ<わたし>になる、そうすれば<わたし>のために行動することは、彼らのために行動することとつながる、そうした地平線があるのだと思います。

夢物語に聞こえるかもしれないですが、そうした<わたし>の範囲を一歩一歩、拡げていくことが必要ではないでしょうか。地球をケアしよう、と言われてもピンと来ないかと思います。大事なのは、具体性に根差すことなのではないかと感じています。<わたし>とは<わたし>以上のいのちから成り立ちます。少しまなざしを変えれば、地球という大きな主語ではなく、具体的なあらゆる他者と絡まり合っていると気付きます。

吉野弘の詩はそれをきれいに描き出しています。

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詩集「風が吹くと」より

あなたが食べたお昼ごはんを考えてみましょう。ご飯におかずに味噌汁という、一汁三菜の食文化も昔の人々がいたからこそ今のわたしたちが、当たり前にそれを受け取れます。その一品一品は、もともと別のいのちだったもので、それらが血肉になり細胞となります。消化をするにも微生物たちの助けが必要です。人体には37億もの微生物が棲みこんでいます。そうしたいのちが絡まりあうことでしか、私たちも生きられないのです。

逆にいえば、あらゆるいのちに生かされている、とも言えます。近代において、わたしたち人間は自然と社会を分け、人間は他の種よりも優位にあるという立場で、経済をすすめてきました。しかし、まなざしを変えれば、植物がいなければ呼吸もできないくらい、わたしたちはじつは弱い生き物です。こうした他種からのさまざまな恵みをすでに受け取っているということに気づくことが重要ではないでしょうか。
当事者研究の第一人者である熊谷さんは「自立とは、依存先を増やすことだ」と述べます。これをあえて誤訳すると、自らがいかにあらゆるいのちに依存しなければ生きられないか、という"弱さ"への想像力をもつことだといえるかもしれません。

最大の動機は、 ただ美しいと思う生き方をしたいから

以上のように書いてきましたが、DCLのメンバーであるわたしたち自身、十分にあらゆるいのちへ感謝できていたり、想像力にあふれているわけでもありません。この世界をなんとかしなければ回っていかないという課題意識も危機感ももちろんありますが、「世界を救いたい」がいちばんの動機ではありません。

危機感はありつつも、それと矛盾するように、いつものようにスーパーの豚肉を買って、いのちへの感謝を忘れて、ただ食べている自分は今も存在しており、それをどうにかしたいと思っています。自分たちへの自戒もこの活動の動機の1つにあります。

一方で、フィンランドに住んでいたころ暗い冬に時折そそぐ陽の光を受けたときには「ああ〜、恵だ。。」と感じたり、ふだん使っている箸を眺め、これも「木という、いのちであったものだ」とふと感じることもあります。その時には、ことばにできない畏怖のような、不思議な感覚につつまれます。

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そうした感覚をもっと日々の生活に降ろしていきたい。「社会のため」ではなく、自分たちが信じる美しい生き方をしたい・できるようになりたい。活動をかたちづくることで、わたしたち自身がかたちづくられていくこと、それが最大のモチベーションです。わたしを囲むとても身近な、しかし見過ごしてしまうあらゆるいのちに感謝しながら、自分たちが想像をめぐらせて気遣いができるようになる。シンプルに、それが美しい生き方なのだと感じます。

Deep Care: あらゆるいのちをケアする想像力をはぐくむ

そうした動機の下、Deep Care Labは、「あらゆるいのちへのケアする想像力をはぐくむ」というパーパスを掲げて活動していきます。

Deep Care/ディープケアとは
「ケア」は、いまの時代の大きなキーワードではないでしょうか。多様な意味が議論されており、わたしたち自身の定義もまだ哲学しきれていません。そんな中、政治学者のトロントは、ケアとはなにかをこう語ります。

ケアは人類的な活動であり、...、この世界を維持し、継続させ、そして修復するためになす、すべての活動を含んでいる。世界とは、わたしたちの身体、わたしたち自身、そして環境であり...あらゆるものを含んでいる
Fisher, B. & Tronto, C. 1990. "Toward a Feminist Theory of Care" より

日々の中で人はたくさんのケアを提供しています。肘を怪我した友達の荷物をもってあげたり、植物に水をやることだってケアの活動です。ケアをする人=介護士、ケアを受けるもの=社会的な弱者では決してありません。わたしたち人間は、ホモ・クーランス(homo curans)です。生まれるときも死ぬときもケアされる中での営みです。だれしも人間は、無数との「わたしとあなた」の具体的な関係に根ざしてケアされ、ケアをすることで生きています。

ケアという言葉は、日本において医療や介護、福祉にまつわるイメージが強いのでは、と感じます。ヘルスケア・メンタルケア・セルフケア・ボディケア・スキンケア・から高齢者ケア・在宅ケア・ケアワーカーといった言葉まで。

しかし、ケアは医療に閉じているわけでもないし、人間だけに閉じているわけでもありません。人間といっても今を生きる身近な人々だけに、とじているわけでもありません。人間ならざる動植物にも、未来にも過去にも、ケアしケアされる関係はひらかれています。

フィンランドに住んでいたとき、コロナ禍で人と会えないなかで、ぼくは森の樹木や苔にどれだけ救われたか。苔にとってはぼくなどどうでもいいかもしれない。けれど、そこに存在してくれるだけでいのちの息吹を感じることができ、間違いなくケアされていたのです。ふだんわたしたちは、きちんと見ていない、あらゆるいのちの関係性のなかで、ホモ・クーランスとしてわたしたちは存在します。

少しまなざしを変えて関係性を再発見することで、おのずと自分はどう向き合えるのかということを考え、ケアの気持ちが湧き上がるのではないか。それが、なんらかの小さな実践のかたちにつながるのではないか、そう考えています。和辻哲郎は人間とは間柄的存在だといいました。たしかに「人の間」と書きますが、<ひと>と<もの>のあいだや、<ひと>と<ひとならざるいのち>のあいだも考えねばなりません。ケアをそこまで拡張し、あらゆるいのちをケアする生き方をしたいーーDeep Careという言葉はわたしたちがつくったものですが、こうした祈りを込めています。

想像力とは
そのようなケアしていく態度には、想像力が欠かせなません。想像力は最後の資源だと言われています。わたしたちは、あらゆる想像力を自分たちの手に取り戻さないといけないと思います。

いまの日本では自己責任の考えがつよく「あなたがそうなったのは努力が足りないからだ」と切り捨てます。しかし、ひとつ何か掛け違えたら、自分も寝たきりの生活になっていたかもしれないし、職を失っていたかもしれない。常に、そのような起こりうる可能性と隣り合わせに生きています。「わたしは、あなたの立場になりえたかもしれない」という想像力は、自分の半径2mを超えた人々にケアを向けるための想像力です。

環境危機の時代に、「地球」という大きな主語をいきなり身近に感じるのは難しいかもしれません。だから、生々しい具体的な関係に根差すこと、そのために想像が立ち上がることが重要です。家のとなりに生えている木々・植物から酸素をもらっていたり、先人から知恵をもらっていたり、土から美味しい野菜をもらっていたり、鶏のいのちをもらっていたり、たくさんの贈与をすでに受け取っています。じつは身近に多くを与えられていたことに気づくことで、次に自分がだれかに・何かに与え返していく、ケアしていく、という新たな贈与に向かうことができます。これも想像力によるものです。

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"イノベーション"にあたり、祖先はいまのこの変化を望んでいるだろうか。未来を生きる子供たちはこの変化によって恩恵を受けられるのだろうか。森や、山や、川や、動物たちはどうだろうか。と立ち止まって考えるのも想像力です。

SF作家Bruce Sterlingは「私たちは、想像力のない文化へ突入した」といいます(※1)。しかし、未来学者Fred Polak(※2)が言うように「人類は、よりよい夢を描くちからがある」のです。このように、ケアすることが人間の性質であるなら、想像することも切り離せません。Deep Careの背後にあるものは、今の人間のあり方を再想像することでもあります。

想像力をはぐくむ -DCLのできること-

想像は「何か現前の手がかりを媒介にする」ことでより促されると、鷲田清一さんは述べています。

昨年、姉にこどもが生まれましたが、この子にどんな社会を生きてほしいだろうか、と考えさせられました。樹齢200年の大木に触れ、歴史の重みを感じつつ、200年前は一体ここはどんな場所だったのかと想いを馳せました。それは、「今・ここ」から「今ではなく・ここでもない」どこか別の世界へとつながる、窓のようなものです。

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窓からいつもと異なる世界を眺めてみましょう。望遠鏡があればはるか遠くの風景までまなざせるかもしれません。わたしたちの行っていく活動は、そのような窓をかたちづくり、望遠鏡を手渡すことと言えます。

例えば、2070年のゴミと生活の未来を描くことで「捨てる」という行為を見つめ直すワークショップを奈良県の生駒の職員さんと市民の方々と行ったり。アイヌ文化のイオマンテ(熊送り)という儀式をヒントに、身近なモノにおける魂や向き合い方を考えたり。微生物に感謝の手紙を書くことで、日常の行為から生かされている感覚を内省したり。そのような場や方法を編み出し、想像を促し、ケアの態度が湧き上がる生成のプロセスにつながる実験を試行錯誤します。

海ゴミのような考えづらい環境にまつわる問題に対しての想像力を促す学びのコンテンツを考えることも行います。カナダのイロコイ族は重要な意思決定の際に7世代先の視点から判断しますが、事業やサービスをつくるなかで、遠い未来を考慮した意思決定の枠組みやデザインのプロセスをかたちづくることも行います。

終わりに:

創業者であるわたしたち自身、このようなテーマの専門性をみじんも持っておりません。テーマといっても複合的で横断的すぎます。先述のとおり、想像力にあふれているかといったら、そういうわけでもありません。わからないことばかりです。興味関心を共にする方々にぜひ助けてもらいながら進んでいきたいと思っています。そうした方々とともに、想像力に富んだ大きな<わたし>に変化していく過程を楽しく歩んでいきたいと思います。

メンバーとしてともに活動できそうな方や、ともにお仕事や研究ができそうな方、活動自体の壁打ちに付き合ってくれる方、いろんな方とつながり話をしていきたいと思います。ぜひ、ちょっと話ききたい!というノリでも、お気軽に連絡していただければうれしいです。

それでは、これからDeep Care Labをどうぞよろしくお願いいたします。

ーDeep Care Lab 川地真史 & 田島瑞希

コンタクト
💻DCLのWeb site: https://deepcarelab.org/
💌DCLのアドレス: info@deepcarelab.org
🐓DCLのTwitter: https://twitter.com/DeepCareLab
川地のTwitter: https://twitter.com/Mrt0522
田島のTwitter: https://twitter.com/MIZ_TAJ

Reference
(※1)Bruce Sterling. Design Fiction. nd. p.3
https://shelovestofu.com/blog_uploads/2009/04/sterling-design-fiction.pdf

(※2)Fred Polak. The Image of the Future. 1973. p.305

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