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【イベントレポート】死者とともに生きるとは?: 儀礼・民主主義・データから考える

こんにちは。先週は3回目となるDeep Care Labのおしゃべりイベントを行いました。今までは、Deep Care Dialogueと称していたのも、対話よりゆるい雑談を強調するためにDeep Care Cafeと名前を変えて、"イマココの外側をのぞくおしゃべりの場"として刷新。必要性に迫られる毎日の中で、なかなかお茶を飲むように話せないようなイマココの外部へ通ずるようなテーマを扱います。今回は「死者との共生」について参加者みなさんでおしゃべりしました。

死者とともに...!?」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。
昔の言葉では死者のことを「彼方者 (あっちもの)」というらしく、
いま生きている"こっち"の世界と"あっち(死後)"の世界を分けて考えたい、
私たちの中には、そんな気持ちが脈々とながれているのかもしれません。

でも少し視点を変えると、夏に楽しむ盆踊りは死者との交流だし、政治には死者にだって投票権が必要だという考え方もあったり、データから死者をAIで蘇らせるという未来の可能性もでてきています。

意外と死者って私たちには身近な存在なのかも...
こうした切り口から「死者ともに生きるとは?」を考えてみませんか。

ーイベント紹介文より

参加者の方々は、「 集落に移住したが高齢の方が多く、周りの人が亡くなることも経験し死について考えることが増えた」「なぜ葬式をやるのか疑問に思っていた」など、それぞれが思う死・死者への関心をもって集まっていました。過去最多14名の方が参加していただきました...!ありがたい...😭

チェックインの後の話題提供では、民俗学や民主主義(保守・立憲)、データやAIという切り口で「死者とともに生きる」をお話。

・死者がいない生の浅さ: 深みある時間をもたらす祖霊・死者の堆積
・柳田國男の遭遇した「ご先祖になる」という老人
・儀礼とはなにか。たとえば九州・沖縄の風習の事例、盆踊りの意味
・民主主義に死者が声をもつ必要性
・AI美空ひばりなどのテクノロジーが変えうる死者との関わり

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当日のスライドの一部
参考: https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00905/
画像引用:  https://deepjapan-niino.info/obon/

これをもとに各グループにわかれてみな思い思いのことを雑談していく時間にうつりました。一部、印象に残ったお話を紹介したいとおもいます!

死者を感じるための身体回路

参加者のひとりは、バリ島によく行くとのことで、静寂の日「ニュピ」というバリのお正月の祭事や、バリの葬式についてお話しました。

バリでは葬式は、とても熱気にあふれにぎやかに行うそうです。この体験記によると、神輿をかつぐような光景も確認できます。神輿で練り歩いたあとは、輪廻転生の考えに基づき、火葬をおこない魂を解放し天へ送るそうです。次の生の旅へと死者を送り出すことは終わりではなく、新たなはじまりのため、それを祝うのだそう。神輿の行進のあいだは伝統楽器ガムランを鳴らすのですが、この音に揺さぶられて「魂と共鳴」する感覚を得た、とおしゃべりしていました。

重要なのは、その体験は「理解以上のなにか」であって、感じこそすれど言葉でいっても伝わりきらないことです。筆者自身も、祖父の7回忌の法事を執り行っていたときに、不思議な感覚に陥ったことを思い出しました。祖父のための法事の場で、生後半年の姪っ子ちゃんは大声で泣いています。そりゃあ、聞き慣れない謎のお経が聴こえてきたり、わけがわからないから泣きますよね。そのとき、亡くなった祖父と新しく生まれてきた姪のいのちがまじわりあうような感覚がありました。これも身体でその雰囲気を感じ取っているのだけど、どういう現象なのかこれ以上、語る言葉をもちあわせていません。

「死者とともに生きる」を考える上で、このように死者や魂とつながりあう身体経験は、とても重要に感じます。とはいえ、そうした感覚は滅多にありません。身体の回路を築くにはどうしたらよいのか、大きな問いとして残ります。

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当日のおしゃべりのまとめ一部

歴史から感じる死者の息づかい

別のグループでは、築100年の古民家に住む方が、前に住んでいたかたの遺していかれたものを片付けているときに「もの」を通じて昔の人の暮らしを想像できたり、過去の人々の暮らしの歴史が自分のまわりに横たわっていることを感じられた経験を話してくださいました。一方で、ベッドタウン出身のかたからは、「逆に自分はまちの歴史のなさから、インスピレーショントークの"死者がいない浅さ"の話題にとても共感した」という話が。

この話は建物やまちだけでなく「もの」にも当てはまります。

市松人形や楽器などは人間よりも長生きで、代々次の世代に贈られ、継がれていく。そういう「もの」は、私たちは知らない世代の生活を知っているし、代々先人たちが大事に扱ってきてくれた積み重ねの結果として、手元にやってきている。だとすると、今よいと言われている断捨離やミニマリストのような「ものと共に生活しないスタイル」は過去を捨てること・死者とともにいないスタイルと捉えられるかも。それらを「Soul=魂がない」スタイルだと揶揄することもあるそうですが、その所以がわかった気がする!と、人工物の歴史や過去から感じられる死者の話に発展しました。

デジタル世界の痕跡に、死者を感じることはできるのだろうか

どうやら現代の私たちは「歴史あるもの」に死者とともにあることを感じられるようです。だとすると、未来の人たちの手元には、有機物としての「もの」とともに、バーチャル上に膨大に現代の私たちの痕跡が残ることになりそうですが、未来の人たちはバーチャル上の「歴史あるもの」にも死者(=過去の人となった私たち)を感じてくれるのでしょうか?そんな問いも生まれました。

雰囲気として「死者を感じる」のではなく、遺されたリアルな音声データや映像データのアーカイブからくる「生々しい死者」を感じられる未来の可能性もあります。AI美空ひばりや、ホロコーストの生存者をバーチャル化する事例を紹介しましたが、SFドラマ「UPLOAD」のように、死者がデジタル上で生き続ける技術は真剣に研究されています。技術の進化によって、死者とあの世はぐっと身近になるかもしれない...。それがいいことなのか、悪いことなのかはわからないけれど、少なくとも死者とともにある、という感覚は現代と未来でだいぶ違ったものになりそうだ、という可能性を見ることができました。

おわりに

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参加者のみなさま

現代における死者の影は、どんどんと薄くなっているように感じます。山間部でのお盆の風習、バリやメキシコの死者の日など、死者との儀礼が色濃くのこる土地ではこのつながりは維持されている一方で、都市部ではその機会も多くはありません。

参加者のひとりが振り返りの際に「過去のほうが死者との結びつきが強かったのは確かだが、過去に戻るではなく現代ならではのつながりを模索していきたい」と話していました。データやAIといったテクノロジーにより関係性は変わっていくでしょうし、危険性も伴いつつもポジティブな可能性だって詰まっているはずです。一番ぶらしていけない部分は何なのか?をより深めながら、わたしたちとして何を望むのかを考える機会を、またつくっていきたい。そう感じました。

・・・

これまで3回、Deep Care Cafeをひらいてきましたが、次回からはゲストの方を呼んで行いたいと思います。現在は7月中旬頃の予定ですが、花人の方をお呼びして、お花から「人と人ならざるもの」とのかかわり合いについて考え、おしゃべりする場を企画しています。みなさま、ぜひご参加ください!

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