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なんでも豆腐並べに換算して、不自由を感じる

根性無しなのでスポーツクラブに通うより続くかな、と運動不足解消のために始めた早朝の品出しバイト。(パートか?)

楽しくやっているのだが、一つ困ったことが。働き始めたらなんでも、時給換算してしまうようになったのだ。

例えば、旧友とのランチ。

今までは年俸制だったので、自分が1時間にいくら稼いでいるかを特段意識したことはなく、年に1度や2度しか会えない友達とのランチ代なんて、幾らかかろうが所詮はランチである。気にも留めなかった。

しかし、今は「うーん、豆腐並べ〇時間分か」なんて考えてしまうのである。旧友とのランチの方がずっと価値があるとアタマではわかっているのに。

或いは、娘のお友達の誕生日プレゼント代。

そもそも娘は誕生日プレゼントのやり取りなんてめんどくさいことは、したくない子である。「返さなければ、来年はくれないだろうから、あげないことにする」なんていうから、「不義理はダメ。ママが払うから」と強要して以来、プレゼント代は私持ち。クラス替えとともに交換するお友達の数は年々増えていく、という視点がすっかり抜けていたので、今では十五人分くらい負担している。

先日、なんとかちゃんの誕生日だからプレゼントを買わなきゃと言うから「そのなんとかちゃんは、ママの豆腐並べ1時間を捧げるのに値するほど仲いいの?」と聞いて、娘から冷ややかな視線を浴びた。「その何でもかんでも豆腐並べに換算するのやめてよ」と。

ちなみに娘にはこの間も、服を「1ユニクロ」で換算するのをやめろと、怒られたばかりである。「その服、3ユニクロの価値ある?」みたいなことをつい言ってしまったのだ。

そういえば、幼い頃は何でもフーセンガムで換算をしていた。「うーん、30円か。フーセンガムが3個買えるな」みたいな。

人間、年をとってもそうそう本質は変わらないものだなぁ。

25年くらい前だろうか。テレビで京都の大金持ちが、母娘3世代で呉服屋に着物を仕立てに行くシーンを見たことがある。反物を選んでいる三人にスタッフが「値段は見ないのか?」と聞いたら、おばあさまが「値段を見ると心が貧しくなる」と言うから、「へ―、さすが金持ちは言うことが違うわねぇ」と感心した。

私はド庶民だから、心が貧しくなろうが、払えるかどうかという切実な問題があるので当然、値札を見る。だけど、今まではただの数字の羅列だった値札が、「5豆腐並べ」「12豆腐並べ」なんて、違う意味を持ち始めちゃった途端に、買い物もランチも以前よりちょっぴり楽しめなくなってしまったのだ。


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