#1 noteをはじめるにあたって
noteをはじめるにあたって
絵を描くこと
思えばしばらく鉛筆を持って手を動かしていない。
もちろん仕事でラフを描いたり、エスキースをしたり、絵はそれなりに描く。
ただ大学を目指していたあの頃のようにゴリゴリ絵を描くことはいつからかなくなった。学生の頃からもはやそんなに絵を描いていなかったかも。
大学に入って間もない頃、予備校に呼ばれてデモンストレーションをやらされて大恥をかいた覚えがある…。(デモストに呼ばれたみんながそうであった)自分でも1年やそこらであんなに描けなくなるとは思いもよらず…キラキラした目に囲まれて異常な汗をかいた。
デッサン力というのは不思議なもので、あの頃死ぬほど頑張ってデッサンしたおかげで、観察力や光を捉えることには長けたと思う。
でもいざ絵を描くとなると毎日のように描いていなければすぐに鈍ってしまうものだ。インプットとアウトプットは別物なんだ。
最近ポツポツ絵を描いているきっかけは、甥っ子の似顔絵を描いたこと。
異常に描けなかった…似ないのはもちろんのこと、手が思うように動かない。これはいかんと思い、少しづつでも手を動かそうと落書きを始めた。ちゃんと石膏デッサンでもしたいところだけど、そんなもの無いから落書きレベルではある。
作品とは別の“なにか”
学生の頃、コマ撮りアニメに出会い、自分のキャラクターに自分で命を吹き込める快楽。自分で世界を作れる面白さにどっぷりハマった。
作品の構想を練る上で、最終的に表面に出ようが出まいが辻褄が合わないと納得がいかない。そして何かにつけて深掘りし過ぎてしまう。インプットの量が多過ぎて処理しきれなくなることも多い。ひとつの作品が終わってみれば、ほとんど反映されていないことも多々ある。情報が多すぎると伝えたいことがボヤけるので、“好きだけど今回のコンセプトからブレる”といったものを泣く泣くカットしていくと、未処理のインプットが山のように傍に積まれることになる。
それでも次の構想に役立ったり、新たな疑問が次の課題になったり、無駄なことは無いと信じている…。
ということで、この場では、1.絵を描くリハビリを人目に晒す。2.作品の構想とは別に、傍に置いた雑多な情報を整理する。この辺りをテーマに始めてみる。
霊長類が好き
なんで猿なのか。
「母をたずねて三千里」のAmedeoが好きで、お猿さんをいつか肩に乗せて生活したいと本気で思った。今思えばAmedeoって何猿なんだろう?
某美術大学の受験に“想定デッサン”というものがあった。今はどうだかわからない。僕は全く勉強してこなかったので、学科が基準にならない大学1本で受験勉強をすることに決め、とにかく絵を描いた。
学科ができないのに私大を滑り止めにするのもどうかと思うけど、この時の“想定デッサン”という実技試験が、単に面白そうだったからという理由で受けた。
試験会場にはモチーフがどんと置かれていて、それを囲むようにイーゼルが置いてある。「目の前のモチーフが置かれている状況を想定してデッサンせよ」という課題。確か3時間。モチーフをただ見えた状態で描くのではなく、何か想定した状況と、そこに含まれるモチーフを描く必要がある。その試験の準備のために、何も見ずにチンパンジーが描けるように練習した。(今回の晒し絵は久々に描いたチンパンジー)本番ではスーツケースが置かれていたので、スーツケースを開けて物を散らかすチンパンジーの親子を描いた。それはそれは力作だったと思うけど、しっかり学科試験で落ちました。
人類に一番近い哺乳類ということもあって親近感があるのか…はたまたAmedeoの影響か…昔から何かといえば猿だった。
初期人類
ここ数年興味があるのは、人類の起源。これに関しては落書きと共にこれから描いていくことになるので、ここでは簡単に。
そもそも昆虫やら動物やらが好きで、「ファーブル昆虫記」や「シートン動物紀」を図書室で読み漁っていた。なかなか読みきれなかったダーウィンの「種の起源」を数年前に読み切って以来、人類起源に興味が湧いてきた。
チンパンジーやゴリラと分かれて、別の道を歩んだ人類。化石として証拠が出てきている以上に数多くの種が居たであろうし、その頃の人類は自然選択によって様々な形態だったのも面白い。
デイヴィッド・グレーバーとデイヴィッド・ウェングロウ共著の「万物の黎明」の中で、狩猟採集時代の初期人類はそんなに退屈なものではないと書いている。(この本の話も追々)確かな証拠からは読み解けないことが多いものの、ギョべクリ・テぺやストーン・ヘンジのような遺跡には季節的二元性(雨季には集合し共同体を作り、乾季には小さなグループに分かれて分散するといった、季節性政治形態)の証拠が見られ、今以上に社会性も多様だったと考えられている。
我らが日本の縄文時代も、縄文時代と簡単にひとくくりにされているけれど、もっともっと複雑な社会があって、面白いはず。
アクア説
人類の起源の中で特に興味があるのは、人類が水に適応した時期があるかも知れないという説。ドイツの人類学者マックス・ヴェシュテンヘーファーさんを発端に、海洋生物学者のアリスター・ハーディー、人類学者のエレイン・モーガンなどが提唱している。自然系ドキュメンタリーのナビゲーターでもお馴染みの動物学者デイヴィッド・アッテンボローも肯定派らしい。
哺乳類の中で、水棲哺乳類や鯨偶蹄類以外に皮下脂肪を蓄えるのは人類だけであったり、体毛が薄いことや、二足歩行の割に腰痛(重力に弱い)が多いなど…。ここも長くなるので追々書く。
僕自身海岸線で海上生活をしていたんでは無いかと思うけど、海水面が変わったこともありアクア説を裏付ける物的証拠がないことも事実…。
ホモ・フロレシエンシスというフローレス島で見つかった体長1m程度の人類絶滅種も僕は水に適応していたからこそあそこにいたんでは無いかと思う。
そんな手当たり次第インプットして整理できていない情報を、僕の個人的な観点も交えながらまとめていこうと思っています。徐々に勘を取りもどしていくであろう絵も添えて。