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エッセイ:サイセイについて


1

わたしはサイセイします。

サイセイとは何か。

それは、サイセイをサイセイすること、です。


2

わたしは、音楽を再生します。

再生ボタンを押します。

SONYのウォークマンで音楽を再生します。

好きな曲、あの頃に飽きるほど聴いた曲、CD屋でジャケットだけを見て買った曲。

友人にすすめられた曲、好きな人が聴いていた曲、かっこいい人が聴いていたのを知って憧れて聴いた曲。

わたしは高校生のときバス通学でした。

通学のバスのなかでウォークマンの再生ボタンを押します。

乗客もまばらなバスの中で、イヤホンを耳に入れて、大音量で、たったひとりで音楽を再生します。

わたしは再生します。

音楽を再生します。


わたしは差異性を意識します。

わたしと他者の違い、差異が生まれること。

単に「差異」を意識するのではなくて、「差異がうまれること」を意識します。

単なる「差異」というのは、わたしが好きな曲は、他者にとっては好きではないということです。

一方で、「差異がうまれること」というのは、単に個人の好き嫌いではなくて、そういう違いが生じることの全体、あるいは構造であります。

では、違いが生じる構造とはなんでしょうか。

あのひとは、この音楽をライブ会場で、不特定多数の人たちと一緒に聴いてる。

あのひとは、ロックバンドを組んで、メンバーと一緒に演奏しながら聴いている。

わたしは、ひとりでバスに揺られてイヤホンで繰り返し繰り返し同じ音源を聴いている。

聴く環境、どこで聴くか、どうやって聴くのか、同じものを繰り返し聴くのか、オリジナルを聴くのか、モノマネを聴くのか、自分で演奏している音を聴くのか。

音楽は、差異を生じさせます。

つまり、音楽には差異性があります。

それは、聴く人、聴き方、聴く場所によって、印象に差異が生じる、ということです。

わたしはその差異性を意識します。

わたしが聴いているこの音楽は、きっと他のひとが聴いているあの音楽と違う。

なぜなら、環境が違うから、ということ。


CDにはどれも同じ音源が、0と1のバイナリーコードで埋め込まれているでしょう。

CDは同じ、音源は同じ、でも、一度再生すれば、差異性が生じます。

それは、持っている再生機器や、スピーカーによっても生じます。

また、MDに録音したのか、MP3のデータにしたのか、テープに録音したのか。

媒体によっても、音源には差異が生じます。

そしてさらに、聴く環境によって差異が生じます。

いつどこで聴くかによって差異が生じます。

音源の種類(媒体) × 聴く環境(再生機器) × いつどこで = 無数の差異

つまり、組み合わせは無数にあるということ。

大量の組み合わせがあるのですから、今日聴くのと、昨日聴くのとで、あるいは明日聴くのとでも、実は音楽は異なるのかもしれません。


ということは、わたしは音楽を再製サイセイしている、と言えるのではないでしょうか?

わたしは聴くたびに、音楽の印象が変わっていくのを感じます。

あのころ良いと思っていた曲が、今は響かない。

あのとき嫌いだった音楽が、今は響く。

あのころ良いと思っていたのとは、違う良さを感じる。

あのとき嫌いと思っていたのが、今は気にならない。

わたしは聴くたびに、その都度、印象を製造しているのかもしれない。

つまり再製しているのかもしれない。

同じ印象ではなく、違う印象を作り出すということ。

差異性を再製するということ。


わたしは再生します。

再生とは何か。

それは、差異性を再製すること、です。


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