デレラの読書録:チバユウスケ『詩集 ビート』
日本のロックシンガー、チバユウスケの詩集。
伝説的ロックバンドであるミッシェル・ガン・エレファントから始まり、いくつかバンドを変えながら15年間で書き綴った名曲たち。
ロックバンドの演奏と歌声から解放されて宙を舞った言葉たちが、紙の上に降り注がれ着地した。
楽曲とは違う印象を楽しめる。
詩が楽曲から解放されるというのは、どういうことか。
この詩集には「二つの仕掛け」が用意されているように思う。
一方は「チバユウスケの親父の絵」、もう一方は「私小説であること」だ。
まずは「チバユウスケの親父の絵」について。
巻末「あとがき」で、チバは父が亡くなった時のことを振り返る。
チバの父はよく絵を描いていた。
20代の頃のチバは父にお願いして、実家に飾られていた父の描いた絵を持ち帰った。
その思い出を「あとがき」で回想している。
ここでひとつ問いが思い浮かぶ。
つまり、なぜこの思い出をあとがきに書いたのか、ということだ。
ここにはチバのメッセージがあるのではないか。
ではどういうメッセージか。
チバは父の描いたたくさんの絵の中から好きなものをひとつ選んで持ち帰った。
この「父の描いたたくさんの絵」と「絵を持ち帰ったチバ」の関係は、チバと読者の関係に読み換えられるのではないか。
つまり「チバが15年間書き溜めたたくさんの詩」と「それを読む読者」の関係だ。
ようは、チバはこう言っているのだ、「気に入った詩があれば、持って帰っていいぜ」と。
こうして読者は、解釈可能性を手に入れた。
詩は、演奏から解放されて、言葉になった。
言葉は多様な解釈を生む。
気に入ったら持ち帰っていいぜ、ということは、好きに解釈してくれていいぜ、ということではないか。
次に「私小説であること」について。
どういうことか。
この詩集のページ下部には「チバのちょっとした一言」が載っている。
書かれているのは作詩の時の気分だったり、当時の状況である。
詩を読み、次にチバの一言を読むと、「チバという一人の書き手によって書かれたこと」を読者は強く意識するだろう。
当然だと思うかもしれない。
しかし、どんどん詩を読み進めていくと、詩に登場する「俺」などの一人称は「チバ自身」であることを強く意識する。
つまり、詩の登場人物の苦悩や、叫びや、踊りや、旅や、情景描写や、祈りが、チバの物語として立ち現れる。
したがって、この詩集はチバの私小説なのである。
チバは「世界の終わり」の目前で待っていた。
何かが終わり、何かが始まることを待っていた。
しかし、世界はなかなか終わらないし始まらない。
それどころか世界はダラダラと続き、繰り返す。
もしかしたら「終わり=始まり」は幻想なのか?と疑う。
世界は暴かれた。
世界は終わらずにルールを守り続ける。
人間は馬鹿みたいにルールを守って生きている。
ルールがないことが唯一のルールだと信じるチバは、暴かれた真実にイラつく。
世界の終わりの向こう側に行きたい。
GT400に乗って走れば、向こう側に行けると思っていた。
エスカレーターに乗れば惑星に行けると思っていた。
月にも行けると思っていた。
しかしどこにも行けない。
日常のループから抜け出せない。
ルールに抗うチバの孤独。
シトロエンの孤独は続く。
なめつくされたドロップのように、日常に溶け出してしまう。
しかし、動物たちは幾分か自由に見えた。
自由に空を飛び歌う鳥たち。
カラス、カナリヤ、コンドルに、共感と羨望の眼差しを向ける。
あるいは、音楽に合わせて踊るあの子もまた自由なのだろうか。
あの子がもっと自由に踊れるように、チバは演奏して歌を歌う。
ロックンロール、それが「お前らの仕事だ」と心に決める。
この星にメロディーを、あの子にキスを、君にロックンロールを。
それだけで生きてけるのはちっとも不思議じゃない。
チバの物語。
わたしはこの詩集から、誰かの自由のために歌うことを決意した物語を受け取った。
勝手な解釈の繋ぎ合わせに過ぎないけれど。
持ち帰って家に飾ろうと、そう思う。
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