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デレラの読書録:伊藤亜紗『記憶する体』


『記憶する体』
伊藤亜紗,2019年,春秋社

身体的な障害を持つ人たちは、どのようにして自分の体と向き合っているこか。

本書は、美学者・伊藤亜紗が、身体的な障害を持つ人たちに行ったインタビューをまとめた論考である。

体に蓄積された記憶(あるいは蓄積されなかった記憶)との関係はとても複雑。

腕を後天的に失った人は、腕があった記憶がある、逆に腕を先天的に持たないひとは、腕を持たないという記憶がある。

記憶との付き合い方は記憶の数だけ存在するので、最善の策のような普遍的な唯一の方法など存在せず、それぞれがそれぞれにローカル・ルールを構築するしかない。

持てる記憶と、持たない記憶が、身体に影響を与える。

その影響と付き合っていく、そうしてローカル・ルールを構築する。

逆に言えば、人間はそれぞれのローカル・ルールを自分で構築できるということでもある。

体が経験の積み重ねて、創意工夫を通じて、自らルールを構築できる。

この本に登場するのは身体に障害を持つひとの話であるが、そもそも、身体の障害の有無にかかわらず、自分の体を思い通りにコントロールすることは出来ない。

わたしは両手を持っているが、この両手を思い通りにコントロールすることはできない。

どうもうまくいかない。

しかし、この本に登場する人たちは、創意工夫によって、あるいは、意識的にか、無意識的にか、身体にうまく適用していく。

その能動的で果敢な取り組みと、身体の驚異的な動きに読者は圧倒されるだろう。

そして、勇気づけられるのだ。

「与えられた条件のなかで、この体とうまくやるにはどうすればいいのか。そんな「この体とつきあうノウハウ」こそが、その人の感じ方や考え方とダイレクトに結びついています」
(『記憶する体』,p.270)

身体との付き合い方が、そのひとの人格(考え方や感じ方)とダイレクトに結びついている。



記憶、ローカル・ルール、ノウハウは体の数だけある、ということ。

わたしは、ここでカール・マルクスの言葉を思い出す。

人間的現実性の獲得、対象にたいするそれらの諸器官の態度は、人間的現実性の確証行為である。すなわち、人間的な能動性と人間的な受動的苦悩とである。なぜなら、受動的苦悩は、人間的に解すれば、人間の一つの自己享受だからである
(マルクス『経済学・哲学草稿』,p.136,岩波文庫,城塚登・田中吉六訳、太線部引用者)

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