エッセイ:非一般的読解について
1.非一般的読解
わたしは「ある領域」を確保したい、とそう願ってこの文章を書いています。
その領域は、物理的な領域(たとえば部屋やカラオケルームやテニスコートのような物理的な空間)ではないのですが、かと言って、スピリチュアルな、神秘的な領域でもありません。
その領域は、言ってしまえば思考の領域、あるいはイメージの領域に含まれています。
わたしはその領域を、「非一般的読解」という言葉で確保したい。
では、非一般的読解とは何か。
読解というのだから、当然、何かを読み解くことに関係する領域です。
また「非一般的」としたのは、「一般」と区別するためです。
つまり、言い換えれば、一般的な読解ではないような読解、それが非一般的読解です。
2.接続を受け容れること
では、なぜそんな領域を確保する必要があるのか。
これはわたしの個人的な動機なのですが、何かを読み解くときに得られる「解放感」に、わたしは魅了されているからです。
特に、文芸作品です。
小説、評論、研究所、歴史書、マンガ、アニメ、映画、音楽、詩、絵画、彫刻、ドラマ、演劇、ミュージカル、歌舞伎、人形劇、ゲーム、なんでもかんでも。
ポップカルチャーでも、サブカルチャーでも、難解なものでも、簡単なものでも、なんでもかんでも。
これらを読み解くとき、その瞬間にわたしは作品と接続される。
わたしと作品の関係のなかで、わたしがこれまで享受してきた作品と、目の前の作品が接続され、樹形図が広がっていくような感覚。
その感覚、イメージ、印象、感想は、一般的なものにはなりえず、わたしの個人的な作品歴として構築されていきます。
その記憶の領域、イメージの領域、作品のパッチワークから出力される思考の領域を確保することは、わたしという実存を、つまり、わたしの個性を受け容れることに繋がるのではないか。
一言で言ってしまえば、自己肯定です。
自己肯定と聞いてしまうと、何だか矮小なものに思えるかもしれません。
しかし、実態として、自己肯定は容易ではありません。
自己肯定は不断の行為であり、一回自己肯定すれば終わり、というものではありません。
不断に訪れる自己追及からの逃避は、明日も明後日も来週も一か月後もやってくる。
それに抗うために、作品との接続を求めるのです。
さて、わたしは「非一般的読解」の領域を確保したいのでした。
そのために、まずは「一般的読解」というものを想定しなければなりません。
一般的読解について、わたしの検討は十分に済んでいるわけではありませんが、そのアイデアをまずは記述します。
ひとつは、学校教育的、あるいは置換的なものです。
もうひとつは、公式的、あるいは社会的なものです。
この辺はつらつらと書いたものなので、読み飛ばしていただいても構いません。
それらを前提に置いたうえで、非一般的読解の領域について考えています。
そこから読んでいただいても大丈夫です。
ぜひ一緒に考えてみてください。
よろしくお願いします。
3.学校教育的、置換的
一般的な読解のひとつとして、まずは「学校教育的な読解」を考えてみたい。
学校教育、つまり、授業やテストで課される読解方法です。
その読解方法について、端的にまとめてくれている本があります。
それは、東京大学の現代文の問題集に付録されている、現代文の解法です。
(ちなみにわたしは受験生でもなければ、東大卒でもありません、単に現代文の解法って巷でどう言われているのだろうという純粋な興味でこの問題集を購入しました)
この本では、テストを解くための8つのパターンを提示しています。
簡単に要約しながら引用しましょう。
(ぜんぶ真剣に読む必要はありません、何となくサッと眺めてみて下さい)
パターン8が象徴的ですが、これらのパターンは、ようは「置き換えること」がポイントであると言えるでしょう。
ようは、学校教育的な読解とは、本文中の言葉と置き換え可能な読解であるということ。
学校教育的、置換的な読解。
そしてそれ以外の読解は、本文を逸脱した、飛び越えた、飛躍した読解であり、単に「間違った読解」である、ということ。
本文と置き換え可能な読解は、誰が読んでも同じになる正解として読解であります。
つまり、学校のテストで正解として扱われているような読解が、一般的読解のひとつであると言えるでしょう。
4.公式的、社会的
前章では、学校教育的な読解、つまり正解としての読解、本文と置換可能な読解が一般的読解である、と述べました。
では、逆に、本文と置換られない読解は、一般的読解になりえないのでしょうか?
結論から言えば、そうではないでしょう。
本文だけ読んでも分からない読解であっても、一般的であると言える読解があります。
たとえば、公式設定と呼ばれるものです。
公式設定とは、ようは、本編には描かれていないけれど、編集のなかで落ちてしまった、あるいは、脚本上の裏設定などです。
制作側が、制作裏話や、雑誌インタビューや、公式設定集などで開示した情報。
本編を越え出ているものではありますが、公式が認めた設定に基づいた読解は、一般的な読解と言えるでしょう。
また、完全には公式ではないけれど、準公式的な設定というものもあります。
それは、ファンが考え出した設定です。
たとえば、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」や、アニメ「ガンダムシリーズ」は、ファンによって認められた設定というものが存在するでしょう。
本文には存在しないことでも、ファンという需要者が、言ってしまえば、社会的に認める読解は、ある程度の説得力を持つ一般的な読解なのです。
このように、公式的なもの、あるいは、公式的ではないけれど、社会的に認められたものは、本文を飛び越えていても一般的読解であると言えるでしょう。
5.非一般的読解 2
わたしは非一般的読解という領域を確保したいがために、この思考実験を始めたのでした。
そしてわたしたちは、一般的な読解として、「学校教育的、置換的」なものと、「公式的、社会的」なものがあるということを見てきました。
ということは、非一般的読解とは、本文とは必ずしも置き換えられない読解、あるいは、公式やファンから必ずしも認められていないような読解、と言えるでしょう。
え、じゃあ、単に間違っていて、かつ、誰も認めないような妄想的な読解が、非一般的読解ということ?
そう思われる人がいるかもしれません。
確かに、単に誤解で妄想的な読解は、非一般的読解の芽でもあります。
しかしながら、非一般的読解は、読解である限り「ある種の制約」を受けます。
では、ある種の制約とは何か。
それは、文章である、ということ。
では、文章であることとは何か。
それは、他者が読むことが出来る、ということ。
読解という限り、他者が読んで「なるほど、これは一般的ではないが、しかし読解として成り立っている」という基準をクリアしている必要がある、わたしはそう考えています。
やや気取った言い方をすれば、読解は、他者という「審級」を必要としている、ということ。
さて、まとめましょう。
わたしが確保したい領域は、本文から逸脱していたり、公式設定からすると間違いであったり、ファンから認められているわけではないけれど、読めば何となく「そういう読解があってもいいかもね」と言われるような、そういう領域なのです。
6.秘密と過剰
では、非一般的読解とは何か。
まずは、「読解」について簡単に図式化してみましょう。
図式の登場人物は作家と作品と読者です、この三者の関係性を以下に図示します。
作家と読者のあいだに作品がある、ということは納得いただけるでしょう。
では、それぞれがズレているというのは、どうでしょうか。
このズレは、簡単に言ってしまえば、作家はすべてを作品に書き込むことはできないし、読者もすべてを読み込むことはできない、ということです。
もう少し詳しく考えてみましょう。
ここには四つのズレがあります。
この四つを、「過剰」と「秘密」をキーワードに簡単に説明してみましょう。
①読解の過剰・・・読者が作品を媒介にして、作品を飛び越えて読み取った部分
②作品の秘密・・・読者が作品から読み取れなかった部分
③作品の過剰・・・作者が作品を媒介にして、作者の構想を飛び越えて書き込んでしまった部分
④作家の秘密・・・作家が作品に書き込まなかった部分
いかがでしょうか。
何か作品についての感想を、友人と言い合うような時、あるいは、創作活動をしている人が誰かに感想を言ってもらった時に、このようなズレに出会うことがあるのではないでしょうか。
さて、さらにこの四つのズレと、以前に述べた、一般的読解との関係を重ねてみましょう。
このように、学校教育的、置換的な読解は作品を超えることがありません。
一方で、作品を飛び越える部分については、「④作家の秘密」が公式的読解であり、「①読解の過剰」が社会的、準公式的(ファンの間で公然となっている)読解が当てはまります。
7.非一般的読解 3
では、非一般的読解はどこにあるのか。
作家と作品と読者の関係においては、非一般的な読解の領域はありません。
それはある意味で当然のことです。
なぜなら、一般的読解は、正しい読解であり、公式や社会によって認められた読解なのであって、それ以外の読解は、単に間違いであり、妄想にすぎないからです。
しかし、その間違い的なもの、妄想的なものを、「読解」として構築することができないのか。
学校教育的、置換的、公式的、社会的読解を飛び越えて、そこから先にさらに読解を広げることはできないのだろうか。
そう、わたしたちは飛び越える必要があります。
言い換えれば、一般的読解の壁の向こう側をイメージする必要があります。
したがって、非一般的読解は、この図式から飛び越えた先にある、ということ。
それを図式に当てはめると、以下のようになるでしょう。
端的に言って、非一般的読解の領域はここにあるでしょう。
つまり、作家の構想を、作家の構想を飛び越えて読み取ること。
そして、読者の読解を、読者の読解を飛び越えて読み取ること。
単に思い付きではなく、それを文章として構築すること。
この領域は、とても危険性をはらんでいて、単に妄想であり、自分勝手な読解であるという側面があります。
しかし同時に、他にはない、その読者にしかできない読解の可能性が秘められています。
そういう非一般的な領域にわたしは行きたい、イメージしたい、その領域を確保したいのです。
そのためにはどうしたらいいのでしょうか。
8.非一般的な領域へのアクセス方法
しかし、具体的にその領域へのアクセス方法は、まだわたしのなかで確立されていません。
とは言え、アイデアはあります。
最後にそのアイデアを書き出して、このエッセイを終えたいと思います。
さて、非一般的な読解は、読者の感想あるいは作家の構想を飛び出た領域なのでした。
したがって、どこを読み込めば飛び越えられるのか、ということがポイントとなるでしょう。
わたしには二つのアイデアがあります。
一つは、読み込む対象を見つけること。
もう一つは、二度読み込むことです。
9.表示と表現
まずは一つ目について。
非一般的な領域に踏み込むためには、読み込む対象がポイントです。
では何を読み込んだらよいのか。
それは「表示されてるが表現されていないもの」あるいは「表現されているが表示されていないもの」です。
どういうことか。
まず「表示」と「表現」の違いについて。
「表示」は作中に登場しているか否かであり、登場していればそれは「表示されている」と言えます。
一方で、「表現」は、何かについて(主に表示されたもの)それがどういうものか説明描写されていれば、それは「表現されている」と言えます。
簡単に図式化しておきましょう。
では、「表示されてるが表現されていないもの」あるいは「表現されているが表示されていないもの」とは何か。
具体例をあげましょう。
前者は藤本タツキさんのマンガ『ルックバック』、後者は村上春樹さんの小説『街とその不確かな壁』を例として取り上げます。
例1 藤本タツキ『ルックバック』
「表示されてるが表現されていないもの」について、マンガ『ルックバック』を例に見ていきましょう。
『ルックバック』の単行本をご覧になったことはあるでしょうか。
このマンガにおいて「表示されているが表現されていないもの」は何か。
それは、この表紙の後ろ姿は誰なのか、ということです。
物語のメインの登場人物は、藤野と京本の二人ですが、この表紙絵は、そのどちらなのかというのはハッキリと分かる形で表現されていません。
したがって、この表紙の後ろ姿は誰なのか?ということを読み込むことが、非一般的読解の領域に踏み込む入り口なのではないでしょうか。
その読み込みをわたしは以下の記事にて展開しています。
例2 村上春樹『街とその不確かな壁』
次に「表現されているが表示されていないもの」について、小説『街とその不確かな壁』を例に見ていきましょう。
この小説は、主人公が高校生のころに出会った少女と一緒に創り出した想像上の「街」をめぐる物語です。
その街は「壁」に囲われている空想の街です。
壁はまるで意志を持ち動いていて、街全体のイメージを掴むことがとても難しい。
主人公は一度、その街に訪れますが、唐突にその街から脱出し、現実に帰ってきます。
そして時は流れて、大人になり、40代になった主人公が、ひょんなことから田舎町の図書館長となり、ある少年に出会います。
その少年(イエローサブマリンのパーカーを着た少年)は、どうにかしてその「街」に行きたいと言い出すのですが。。。
さて、あらすじはここまで。
この小説において、「表現されているが表示されていないもの」とは何か。
それは、「街の地図」です。
小説の中では、主人公とイエローサブマリンの少年だけが街の地図を知っています。
それ以外の登場人物は、その地図を見ていません。
また、さらに言えば、この小説の読者であるわたしたちも、この街の地図を見ることができません。
小説の付録として、(例えば推理小説の館の地図みたいに)街の全貌が提示されてもいいはずです。
しかしそれはなされない。
つまり、作中では、その街についての説明(表現)はされるものの、地図自体は「表示されない」ということ。
この小説において、「なぜ地図が表示されないのか」を問うことが、「表現されているが表示されていないもの」を問うことと同義です。
それについて書いたのが以下の読書録です。
10.二度読み込むこと
さて、わたしたちは、どうすれば非一般的な領域に踏み込むことができるのか、ということについて考えてきました。
その方法は二つありました。
一つは、読み込む対象を見つけること。
もう一つは、二度読み込むことです。
ここでは、二つ目について考えてみましょう。
二度読み込む、ということは、少なくとも「一度目」があるということです。
一度目、言い換えるならば、ファースト・インプレッション、つまりは第一印象。
わたしたちは、何かに出会ったとき、第一印象というものを抱かざるを得ません。
面白い、嫌い、美味しい、変だ、なんだこれ、わかる、わからない。
そういう第一印象はある意味で「自動的に」発生してくるものです。
「自動的に」というのは、ようは、意識せずとも身体が勝手に反応している、というような意味で捉えてください。
たとえば、学校教育の場で、感想文のようなものを書かせるときには、自分の感じたことを書いてみよう、という形で、この「意識せずとも身体が勝手に反応した内容」を書かせている、とわたしは感じます。(すべての学校がそうではないかもしれませんが)
さて、わたしたちは、二度読み込むことについて考えています。
二度読み込む、というのは、この第一印象を含めて、再度本を読み込む、ということです。
ようは、小説を読んだとき「なぜこのような第一印象を受け取ったのだろう」ということを問いにして小説を読解するということです。
では、この読み方はどういうものなのでしょうか。
自動的に出力される第一印象、それは、読者が普段からずっと一緒に生活しているシステムでもあります。
ようは、癖、習慣、日常、ルール、自己、フィーリング、記憶、いろんな言い方ができますが、わたしたちが生きているなかで、「わたし」を基礎づけるような要素の一つが、この自動的なシステムであるということ。
したがって、二度読み込むというのは、そういう自己の自動システムを、読み込みの対象に持ち込むということです。
それは言ってしまえば、作品と自己を強く接続するということ。
あるいは、一歩踏み込んだ言い方をすれば、自己を、自己から切断して、作品に接続してしまう、ということ。
作品から捉えた印象を、自己の感覚に接続してフィードバックを得ること。
それに挑戦した読解が以下の読書録です。
11.おわりに
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
わたしたちは、非一般的な領域について考えてきました。
そしてその領域を概念的、図式的に捉えて、その領域にアクセスするためのアイデアを提出いたしました。
これで上手くできるかどうかは、まだわかりません。
その挑戦はまだ道半ばです。
また、実際にわたしが書いたすべての感想文・読書録がその領域に踏み込んでいるわけではありません。
非一般的な読解は、いわゆる批評や解説とは別の在り方、別の出会い方、別の捉え方です。
言ってしまえば、イメージの産物です。
非一般的な読解へアクセスするには、すくなくともまずは一般的読解の道を通る必要があります。
しかし、一般的読解の道を歩いて、その行き止まりにある壁、その壁を超えた先をイメージ出来るかどうか。
その壁の先をイメージできたとき、はじめて非一般的な領域に踏み込むことができるでしょう。
しかし、その壁を乗り越えるということは、いわゆる批評や解説などのようなものから一歩離れるということでもあります。
しかしそれでも、わたしはその領域に行きたい。
いつか壁を超えたい。
そう考えています。
おわり
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