デレラの読書録:川上未映子『黄色い家』
最高に楽しめるエンタメ作品なのではないだろうか。
間違いなくわたしはこの小説を読んで楽しんでいた。
こういう物語を楽しむことができるのは何故だろう。
ここで言う「こういう物語」というのは、ロックスターの伝記映画やヤクザ映画のような物語である。
どういうことか。
ロックスターの伝記映画、例えば、英国のロックバンド・クイーンの映画『ボヘミアン・ラプソディ』がある。
ボーカルのフレディは、何ものでもない若者から、栄光を手にし、欲望にまみれ、栄光は破綻し、孤独になる。
その栄光と破綻の物語のなかで、バンドメンバーと少ない友人だけがフレディを支えるのである。
また、ヤクザ映画、例えば、『日本で一番悪い奴ら』がある。
綾野剛演じる刑事の諸星要一は、ヤクザに潜入するスパイとして活躍し、北海道警察のエースとなるが、ヤクザとの関係のなかで、権力や金の欲望に溺れ、すべてを失う。
諸星は、この物語のなかですべてを失う、言い換えれば、虚像だけが自分のアイデンティティとなるのである。
さて、『黄色い家』はこういう物語の系譜にあると思われる。
ようは、破綻の予感を少し先に感じながら、衝動に駆られて突き進む登場人物たちが、一瞬の興奮を手に入れて、さらに欲望し興奮が高まり、風船が破裂するように破綻が訪れるものの、その破綻のなかで、もはやアイデンティティと分かち難い何かを手に入れる、あるいは、失う。
そういう物語である。
では、『黄色い家』においては、栄光と破綻はどのようにして訪れるのか。
それは、ある意味は偶然的に、ある意味では必然的に訪れる。
メインの登場人物は、主人公の花、母の友人である黄美子、花と同年代の蘭と桃子の四人。
四人の出会いはもちろん偶然である。
たまたま同じ時代に、近くにいただけ。
しかしその四人は同棲を始め、黄色い家が完成する。
花はその状況を次のように感じていた。
四人は自由意志で、自ら選択して集まったとも言えるし、一つの塊の一部のような、言ってしまえば「運命」によって引き寄せられたのだとも言える。
四人の共同生活は始まり、そして破綻する。
まるで自分たちで目の前の選択肢のなかからあえて選んで決めたようでありながら、同時に、抗い難い大きなうねりのような、あるいは暴風によってうまく身動きが取れないまま身体を持っていかれるようにして破綻は訪れる。
そういう自己決定と外的決定の狭間で、何かを掴み取ろうと踠きながら、破綻が訪れるのである。
しかしながら、こういう物語を楽しむことができる、というのはどういうことなのだろうか。
スリルな展開にハラハラドキドキして、あるいは、破綻のなかで何かを掴むドラマに感動する。
人が狂う、性格が変わる、偏執する、怒号と暴力、支配、そして死、タナトスへの欲望。
そういう混沌のなかで、もがき苦しむ登場人物の姿を読んで楽しめるのは何故なのだろうか。
登場人物たちのある種の救われなさと、少しの光に感動しながら、登場人物たちの人生を消費してしまうのは何故だろうか。
この読者の欲望はなんなのだろうか。
わたしは思う。
読者は『黄色い家』を欲望していたのではないか、と。
どういうことか。
黄色い家にはルールがあった。
黄色い家には、金にまつわる秘密があり、その秘密を守るためのルールがあった。
つまり、読者が黄色い家を欲望していたということは、読者がルールを欲望していたのではないか、ということ。
では、黄色い家における金にまつわる秘密を守るためのルールとはなにか。
最初、四人は同じスナックで働く同僚だった。
しかし、いつしか四人は、犯罪組織の末端として、ATMでの出し子やら、クレカ不正使用を行うことになる。
四人が犯罪に飲み込まれたのは、まさに自ら選択したものであり、かつ抗い難い大きなうねりに飲み込まれるようなものでもあった。
黄色い家には、犯罪の証拠がたくさん残されている。
したがって、家には他人を入れてはならない、出かけるときは行き先を言うなど、秘密を守るためのルールが設定される。
主人公であり、リーダーでもある花は、現場部隊の蘭と桃子にこのルールを強いた。
そのルールの象徴として、花と蘭と桃子の三人は、家の壁を黄色く塗りつぶす。
黄色というルールの象徴。
読者がこの物語を楽しむということは、つまり、読者がこのルールを欲望したのだ、と言うことができるのではないだろうか。
四人の関係性を長続きさせるためのルール。
狂気を感じさせるルール。
純朴な花が、権力に溺れ、権力の行使に快楽を感じている可能性を示唆するルール。
破綻の予感があるルール。
物語の破綻は、このルールが破綻するのと同時に起きる。
そもそも人間はルールを欲望する。
流行り病があれば、マスクをつけるというルールを欲望する。
戦いがあれば、悪い奴を叩くべきというルールを欲望する。
しかしルールは人工的なものだ。
ルールは、集団を規則的に動かすが、だんだんとほころびが見つかる。
後になってみれば、ルールを守るべきという欲望自体が、「狂気」に思える。
あのときは仕方なかったのだ、大きな時代のうねりに飲み込まれていたのだ、と自己正当化する。
あのときはルールに従うしかなかったのだ、と。
しかしルールはいつしか破綻する。
そして、そのルールはあとから見れば「狂気」でしかない。
このルールを、あるいはルールの運動というものを、読者は求めているのではないか。
ルールに従う人間、ルールを強要する人間を見ることには快楽が伴うのではないか。
そしてその崩壊を見ることにも快楽が伴うのではないか。
読者はその快楽を欲望しているのではないか。
さて、「ルール」というものは、あとから振り返ればそこに「狂気」を感じる。
ルールを守るの側にも、守らせる側にも狂気を感じることがある。
このように言えば、ルールとはダメなものと思われるか知れない。
しかし、そう単純ではない。
ルールというある種の狂気は、やはりある程度、抗い難く巻き込まれるものであり、避けることはかなり難しい。
誰しも何かのルールを守っている。
もちろん、それは花たちのように犯罪の秘密を守るためのルールではないかもしれない。
しかし、どんなルールであっても、どこかしら狂っていて、偏執的で、守ることにも守らせることにも快楽が伴うような歪んだ側面がある。
そういう歪んだもの、狂ったものの中で、かけがえのない存在との出会いがあるのも事実であろう。
この物語において花が黄美子と出会ったこともそうである。
狂気を帯びたルールと、かけがえのない存在との出会いというのは、かなり近しい関係にある。
言ってしまえな、偏執的なルールが、ある集団の絆を固いものにすることがある。
しかし、それは集団の外から見れば、あるいは将来振り返ってみれば「狂気に見える」ということ。
『黄色い家』という作品は、この機微について考えさせられる。
きっとわたしも、何かしらのルールを守っている。
外から見れば、あるいは、後に振り返ってみれば、わたしはいま狂気の中にいるのかもしれない。
ふと、わたしの家の壁は何色に染められているのだろうか、と恐ろしくなる。
おわり
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