エッセイ:料理のイマージュ
こんにちはデレラです。
今回は、料理について考えるエッセイです。
とは言え、わたしは料理が得意ではありません。
比較的に手料理はする方ですが、料理自体が得意ではない。
では、何を書くのか。
今回、わたしは、料理をするということがどういうことなのか、ということについて考えたいと思います。
あるいは、料理をしているときに、わたしが体験していることについて考えたいと思います。
では、わたしは、料理をしているときに、何を感じているのか。
わたしが思うに、料理というものは、五感の、あるいは内感や直感などを含めた、感覚の総合的な体験です。
では、感覚の総合的な体験とはどういうことか。
たとえば、音楽を聴くという体験は、聴覚の体験でしょう。
または、絵画を鑑賞するという体験は、視覚の体験です。
では、料理は?
料理は、見て、聴いて、匂いを嗅いで、手で触れて、完成品を想像して、味を確かめる、そういう感覚を総動員した体験であると言えるでしょう。
では、この感覚の総合的な体験をするということは、どういうことなのか。
考えたいと思います。
1.料理は視覚?
もしもあなたが、料理をイメージしてください、と言われたとしたら、何をイメージするでしょうか。
料理本に載っている完成品の写真を連想されるでしょうか。
もしかしたら、料理と聞いて完成品の写真を連想するのは、それは人間の体験が「視覚」がメインになっているからかもしれません。
わたしたち人間は、途中経過よりも、完成品を視覚的にイメージし易い。
たとえビデオに撮ったとしても、再生すれば流れていってしまって、その途中をじっと見ることは出来ません。
でも写真なら、しかも完成品の写真ならば、それをじっと見ることは出来ます。
じっと見ることができるということは、記憶し易いということでもあります。
わたしたち人間のもつ、視覚能力は非常に優れています。
ですから「認識」や「イメージ」の話をするときは、基本的に視覚を前提にすることが多いでしょう。
でも、料理は違います。
くり返しますが、料理は感覚の総合的な体験です。
したがって、視覚だけで料理ができるようになるわけではありません。
完成品をじっと見たって、動画をじっと見たって、料理はできやしません。
では料理はどうしたらできるのか。
当然料理を作ることによってです。
では料理を作るとはどういうことなのか。
わたしは、料理を作るには、ある種の「イメージ」が必要だと考えています。
でもそれは「視覚的なイメージ」とは異なります。
そもそも「イメージ」という単語自体に、「視覚」という概念が密着しているので、ここでは別の単語を使いましょう。
「イメージ」ではなく「イマージュ」とでも呼びましょうか。
さて言い直しましょう。
わたしは料理を作るには、料理のイマージュが必要だと考えています。
2.料理のイマージュ
さて、料理のイマージュとは何か。
イメージとは、視覚がメインの記憶と言えるでしょう。
一方で、イマージュは、視覚に限らず、さまざまな感覚の統合的な体験の記憶です。
具体的にはどういう記憶なのか。
ここからは昔話をさせてください。
わたしが料理をするようになったのは、小学生のときでした。
実際には何を最初に作ったのかは覚えておりませんが、何となく、ピーマンとウィンナーの炒め物を作った記憶があります。
わたしにとってのピーマンとウィンナーの炒め物の記憶、そのイマージュはどういうものでしょうか。
頑張って、以下に再現してみます。
まず空腹がありました。
わたしはあのとき、夜中遅くまでベッドの上で寝転がってマンガを読み、朝寝坊をしたのでした。
寝転がってマンガを読んだことによる首の痛みと空腹。
家のなかはとても静かでした。
両親共働きで、祖母が食事の面倒を見てくれていました。
でも祖母は、朝早くに畑仕事の手伝いに出てしまい、家にはわたしひとりでした。
ひとりでいるときの家の雰囲気。
テレビや、洗濯機などの家電の音もなく、しーんと静まり返った雰囲気です。
空腹と首の痛みを抱えたわたしは、台所に行って、食べものを探します。
見つけたのは、昨日畑で収穫したピーマン、それから冷凍庫に入っていた徳用ウィンナーでした。
冷凍されたウィンナーの冷たさと、台所に置かれた常温のピーマンのぬるさ。
重たい木のまな板を出し、包丁を手に取りました。
わたしは平均的小学生よりやや身長は高いものの、小学生には少し高く感じる台所で、ピーマンとウィンナーを切るのでした。
冷凍されたウィンナーは切ることが出来ず、レンジでチン。
レンジが、ブオーっと音を立てます。
先にピーマンを切り出します。
サクッ、トンと音がします。
まずピーマンの実が切れるサクッという音、そして包丁がまな板に着地したときのトンという音。
ピーマンを切ったときの、青い匂いが広がり、手につきます。
プチプチしたピーマンの種を、包丁でとっているときに、後ろでボンッと大きな音がします。
電子レンジでチンされたウィンナーが、レンジ内で軽く爆発したのでした。
慌ててレンジからウィンナーを取り出すと、プシューという音とともに、皿が熱い。
ウィンナーの肉の薫りが、ピーマンの青い匂いに混ざります。
ウィンナーを切ると、手にふにゃりという感触があります。
そしてまな板に包丁が当たる音。
同じ切るという行為でも、食材が違えば、感触は異なります。
わたしは残りを切りながら、昨日読んだマンガのシーンを思い出したりするのでした。
具材を切り終えると、ガス台に玉子焼き用の小さいフライパンを置き、火を付けます。
カチッチッチッチッボッ、と火が付きます。
火がついた瞬間、少しだけ顔に熱が伝わってきます。
適当なサイズに切ったピーマンとウィンナーを温めたフライパンに入れます。
ジーというピーマンの音と、ジュ―というウィンナーの音。
肉汁が出ているウィンナーの方が、音がやや鈍いです。
手でフライパンを振ります。
フライパンの重みが手首に感じられ、指先にはフライパンの上を転がる食材の動きが感じられます。
パチンッという音。
取り切れてなかったピーマンの種が、油の熱で飛び散り始めます。
調味料入れから胡椒を取り出し、振りかけ、醤油をさっと回し入れます。
ジョーという音、醤油が熱せられ一気に蒸発する音。
同時に、醤油の焦げる匂いが鼻をつき、煙が出て、換気扇を入れるのを忘れていた事に気がつき、急いで換気扇のスイッチを入れます。
ブーン、換気扇の音、醤油の匂い、手首の重み、首の痛み、空腹。
火を消して、わたしはお皿に炒め物を盛り付けます。
湯気が、わたしの唾液を誘発します。
熱いままのフライパンをシンクに置いたときのジュ―っという音、フライパンを持つ手のひらに振動が伝わります。
わたしは、箸を取り出し、皿を持ち、居間に移動します。
そして食べ始めるのでした。
ピーマンとウィンナーの別々の歯ごたえ、歯茎の感触。
熱、醤油の焦げた匂いが口の中に溢れ、唾液と混ざりあい、わたしは嚥下します。
一瞬でした。
わたしはすぐに食べ終わります。
お皿に残った醤油と、いくつかの焦げたピーマンの種。
さて、これがわたしの記憶であり、ピーマンとウィンナーの炒め物のイマージュなのでした。
完全な再現は難しいです。
イマージュは体験のなかにあるもので、必ずしも言語化されるものではない。
何より視覚だけではなく、さまざまな感覚ともにあるのです。
ですから料理をするには、このイマージュが重要です。
なぜなら、美味しくできたときのイマージュがあれば、なんとなくおいしい料理を再現できるからです。
また、上手く具材を切ったときのイマージュがあれば、あるいは、上手く炒められたときのイマージュがあれば、そして、味付けできたときのイマージュがあれば、などなどなど。
3.イマージュとわたし
さて、わたしは料理をするときに、自分自身を感じることがあります。
それは、感覚の総合的な体験としての記憶を感じることでもあります。
どういうことか。
つまり、感覚の総合的な体験の記憶に、自分自身を投影しているのです。
食材を切るときの手首と、指先の感覚。
食材を洗うときの手の冷たさ。
空腹の感覚。
あるときに作ったマーボー茄子の味を再現するには、そのときの料理のイマージュを再現しようとすればなんとなくできる。
あのときはどういう風に切ったのだったか。
あのときは調味料をどのように配合したのだったか。
フライパンの温度はどれくらいだったか。
タイミングは? 炒める時間は?
わたしは料理はしますが、上手ではありません。
毎回適当に料理するため、使う材料も調味料もまばらです。
メモも残していません。
頼りになるのは、わたしの体験、料理のイマージュだけです。
さまざまな記憶から、そうだこんな感じでフライパンを振れば、全体に火がまんべんなく通るのだった、と思い出しながら料理をする。
そうしてわたしは、料理のイマージュのなかに、過去の自分を見つけるのです。
言い換えれば、イマージュに対して、今のわたしを投影すると言っても良い。
ようは、わたしは、料理をすることによって、わたし自身を再構築しているのかもしれません。
出来たなら出来たわたしを、出来なかったなら出来なかったわたしを再構築するということ。
何故そんなことができるのかと言えば、それは、繰り返しになりますが、料理が感覚の総合的な体験だからでしょう。
今日はこの記事を書いた後で、茄子の肉炒めを作ります、味つけは塩こうじです。
まず最初に小さめに切った具材で薄味の茄子の肉炒めを作り、それは子どもが食べる分になります。
そのあとで、大きめに切った具材をフライパンに入れ、鷹の爪や花椒を加えてピリリと大人の味にします。
わたしはハイボール、妻は缶チューハイを飲みながら食べることになるでしょう。
今日起きた出来事を思い出して話しながら、仕事の愚痴を言いながら、明日の予定を話し合いながら、わたしたちはそれを食べるでしょう。
その時の匂いと味と箸の感触と周りの雰囲気が、わたしの料理のイマージュを構成することになるでしょう。
そういうことの連続のなかに、わたしはいるのかもしれません。
あのとき、たった一人で食べたピーマンとウィンナーの炒め物も、きっとわたしを構成するピースであるに違いありません。
これからも、わたしは料理をします、得意ではないけれど。
おわり
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