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エッセイ:解読について


多かれ少なかれ「文章を読む」ということは、「暗号を解読する」ということではないでしょうか。

文章を読む=暗号を解読する

読むということは、書かれた文字の意味を、理解するということ。

したがって、読む人は、そこに何が書かれているか理解出来なければなりません。

とはいえ、理解できない文章に出会うこともあるでしょう。

あるいは、読まれるために書いたのではない、というようにして書かれた文章もあるでしょう。

わたしは、理解できない文章、読まれるために書かれたのではない文章というものを否定しません。

しかしながら、それらの文章もまた、文字を使っている以上、「文字を読む人に向けて文章を書いている」ということからは逃れることはできません。

また、暗号文とは、解読方法を知っている人に向けた文章でありますから、その意味では、文章を読むということは、暗号解読をしている、と言えるでしょう。



暗号解読というものは、文章に込められた「ひとつの正しい意味」を「唯一の解読方法」で解き明かす、ということではありません。

つまり、「意味」と「解読方法」とが、一対一の関係にあるわけではない。

解読方法は複数あり、文章の意味もまた複数ある。

別の言い方をするなら、読む人によって文章の読み方は異なる、ということ。

この「読む人によって読み方が異なる」という性質を利用して、解読方法を、読む人任せにしてしまうこともできるでしょう。

書く人が、解読方法を指定せず、読む人に解読を任せてしまう。

例えるなら、パーティーで、ドレスコードを指定しないようなもの、つまり、お好きなお召し物でお越しください、ということ。

わたしは何かの文章を書くのですが、その文章の意味は、読む人任せにしてしまうのです。

いわゆる「詩」が、分かり易い例でしょう。

詩を読む人は、独自の方法で暗号を解読しているのであり、読む人によって、詩の意味は異なる。

文章は、読む人によって意味が違う。

文章の意味は、言葉の容器から溢れ出して、氾濫するのです。



目の前の石碑があったとしましょう。

石碑であるからには、碑文が刻まれています。

こんなふうに。

あなたは 遠ゆくあの音を

聞いただろうか

どこかで見たことがありそうな、平凡な碑文であります。

この文章は、何を意味しているでしょうか。

あなた、とは、二人称でしょうか、それとも、彼方(あなた)の意味でしょうか。

また「遠ゆくあの音」とは、何を指しているでしょう。

聞いただろうか、というぐらいですから、聞こえるような音だったのか、あるいは、聞こえないはずの音、幻聴のことかもしれません。

あるいは、何かの比喩とも考えられます。

比喩、メタファー。

極端な話、「あなた」も「音」も「聞こえる」も何かのメタファーであり、全く別の言葉に置き換えて読むことができるかもしれません。



読む人が違えば、読み方も変わるのであれば、宇宙人が、日本語を読めたとして、わたしの書いた文章をどのように読むでしょうか。

つまり、わたしがインターネットのどこかに、先ほどの碑文と似たような文章を書いたとして、誰にも読まれぬまま、時が過ぎ、遥か未来に、人類が滅亡し、宇宙の彼方から、宇宙人がやってきて、廃都市で、廃ビルに埋もれたサーバーを見つけ出し、上手いことデータを復元した時、復元表示された「わたしの書いた碑文」を、その宇宙人はどのように読むでしょうか。

どのように読まれるか、わたしは、とても興味があります。

そうだ、わたしは、その宇宙人のために、碑文を書いておこう、と思います。

いろんな読み方ができる、そんな文章です。

文章の意味は、言葉の容器から溢れ出して、氾濫するのです。



暗号解読には、誤解がつきものです。

むしろ、正しい読解はなく、理解は複数あり、そのすべてが誤読であり、誤解であるとも言えるでしょう。

読みは複雑化し、混沌としている。

それでもわたしは、わたしの「読み」という欲望を諦められません。

あるいは、誰かに読まれるための「書き」という欲望を諦められません。

氾濫する意味の海で、溺れぬように「泳ぐ」のを諦められないのと同じように。



わたしの書いた碑文のような、詩のような言葉を、宇宙人は、どのように読むでしょうか。

わたしが、いま、書いているこのエッセイもまた、全ての言葉が何かの比喩=メタファーであり、読む人によって意味が違うかもしれません。

わたしは、意味が氾濫してしまうような、文章を書いてみたい。

宇宙人の脳に突き刺さり、脳に空いた穴から意味が溢れて流れ出すような、そんな文章です。

文章、あるいは言葉。

宇宙人の脳の意味回路に接続して、回路を過負荷に追い込むような、そんな言葉です。

突き刺さる文章、接続する言葉。






さて、ここで、わたしは、隘路に立たされていることに、気がつきます。

すでに、お気づきの方もいるかもしれません。

わたしは、「読み方は異なる、読み方は多様だ、意味は氾濫する」と言いながら、ひとつの読み方を提示してしまっている。

この「解読について」というエッセイの読み方を提示してしまっている。

どういうことか。

つまり、わたしは、読み方は人によって異なる、という読み方を提示してしまっているのです。

いわば、ドレスコードはない、というドレスコードです。

わたしは、この矛盾を自覚した時点で、この「解読について」というエッセイを終えなければなりません。

この「解読について」というエッセイを、あなたはどう読まれたのか。

遥か未来の宇宙人は、わたしの犯した自家撞着に、同情してくれるだろうか。

このエッセイには、どのような比喩=メタファーが込められているのか。

このエッセイにおける「わたし」とは何か。

「あなた」とは誰か、「碑文」とは何か、「宇宙人」とは何を指しているのか。

このエッセイに登場するあらゆる言葉、あらゆる文章。

その解読については、すべて、あなたにお任せします。

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