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エッセイ:雑記、あるいはつぶやき

noteで投稿する「つぶやき」は時間がたてば削除するようにしている。

つぶやきは、つぶやきであり、流れて消えるもの、とnoteでは決めている。

スキやコメントをいただくこともある。

が、せっかくいただいてるにもかかわらず、消してしまう。

このエッセイは、そんなつぶやきを、拾い集めたものだ。

どんぐりを拾って、並べてみた、という感じ。

芽吹くことのなかった種である。

あるいは自動出力するコピー機が吐き出す印刷物。

そこら辺に落ちている石のあつまり。

デレラという、ひとつのマシーンから出力されるつぶやきは、並べてみると一貫しているようでありながら、やはり、どこか突飛で、テキトーなものであった。

そう思う。

それは自然に流れ出る。


不確実性を引き受けて生きるということ。


わたしは、「イメージ」という概念を使って、意味の生まれる瞬間に立ち返ろうとしている。イメージが生まれる瞬間と言っても良い。つまり、わたしは新しい言葉を作りたいのだ。イメージとは、言葉の発明、意味の発明である。


わたしは「意味など無い」というようなニヒリズムには賛成しない。他者とは分かり合えないことの絶望を知った上で、乗り越えられないことを承知の上で、それでも「意味はある」と信じたいのだ。意味は「勘違い」によって生じたフィクションかもしれない。しかし、そのフィクションを共有したいのだ。


「意味など信じてお前はバカだ」と笑われても良い、バカにされても良い。バカなのだ。わたしは、意味を、イメージを共有して、笑い合いたい。それは楽しみである。これは快楽ではない。快楽とは別の何か。これは分かり合えない苦痛を伴った「楽しみ」である。恐れるな。ここに意味がある、ここで笑え。


「低俗なもの、大衆的なものは、バカなものだ」と貴族主義・インテリ主義的に切り捨ててしまうのは勿体のないことだ。


絵を描いて見せても、真か偽かという論理性は問われないが、文章を書いて見せると、それが問われる。絵の批判ではない。むしろ、ひとは論理的な文章に対面すると、まず論理性で測ってしまう、ということを指摘したい。論理的な文章にも「真偽」とは違う「形」があって、それを読んで楽しむということ。


言葉を二次的なものとする思考から離れてみよう。まず本来の自然があり、言葉はそれを表現する、したがって言葉は自然を取り損なう二次的なものだ、という思考とは別の仕方へ。つまり、むしろ「言葉」は自然なのだ、と。言葉は人工的で二次的だ、という罠から逃れること。言葉の自然性を発見しよう。


わたしは単に哲学が好きな素人読者である。学部生時代に哲学を齧った程度であり、学問的な積み上げがない。仕事は普通に事務職のオフィスワーカーであり、全く関係がない。出版でもなければ大学事務でもない。それでも本屋に行けば日本語で研究者の本が読めるのだ。これは豊かさなのではないだろうか。


本棚とレコード棚の整理をしたい。いや、整理よりも並べ替えをしたいのだな。いちいちブツを眺めながら、これ良いんだよとか、面白いんだよとか言いたい。


10

万物の根源は酒である


11

自然に対して、言葉が二次的なのではない、「わたし」が二次的なのだ。「わたし」というのは、主体、意識、自己、一人称、なんとでも言えよう。


12

細切りレタス、トマトにオリーブ、ロースハムのサラダ。リースリングの白ワイン。後で松の実も少しかけるか。


13

マジックリアリズム的な表現が大好物なのである。そして、マジックリアリズム的な表現は、それを好まない人には「何を見せられているのか分からない」という印象を与えることが多い。現実と幻想の境目が溶けていくこと、そして幻想から現実に何とか帰還を果たすこと。そのドラマチックさを楽しむこと。


14

フィクションとは何だろうか。虚構、嘘、ニセモノ、リアルの反対。リアルが真でフィクションが偽である、という単純な図式では、わたしは納得できない。リアルはフィクションであり、フィクションはリアルである。元の図式を、この同語反復的な図式に転回する。つまり、わたしはフィクションなのだ。


15

ありうべき代替可能な世界(=フィクション)のなかから、或る特定の世界(=フィクション)を選びとる。しかしそれは、選択肢のなかから能動的に自由意志で選びとる、という類いの選択ではない。また逆に、単に受動的に与えられるものでもない。能動的でも受動的でもない、別の在り方、あるいは賭け。

それは、ある種の力能(あるいは偶然性)によって選び・選ばされるという中動的な出来事。偶然に立ち現れる世界にわたしを接続する。その崇高さに絶句するわたしを勇気づける物語(フィクション)、あるいは記憶。まるで壮絶な映画を観た後で呆然とするわたしの目の間に流れるエンドロール。


16

単語を正しく覚えられずにテストで間違えた記憶だけが残る。単語は記憶できなかったが、間違えたという事実は正確に記憶される。正しさだけでは記憶できない。わたしは物語を必要とする。さらに言えば、物語を仮想することで記憶は定着する。AIは正しさを記録し、わたしは物語を仮想して記憶する。


17

幸せと不幸は同居する。幸せであり、かつ同時に不幸でもありうる。


18

二人でいても、三人でいても、何人でいても、孤独は孤独だ。人に囲まれていればこどく孤独ではない、というわけではない。


19

マンガのキャラクターは、ほとんどの場合「決意」している。結末に向かう決意である。そのキャラクターの決意性を作者は作者の都合で奪っても良いのだろうか、とあるマンガの最終巻を読み終えて思った。きっと良いのだ、そうやって、世界の決意は無数に消されてきたのだ。無数の決意が消されることで、ようやく世界は回るのだろう。


20

どうもナルシスティック・ペシミストになってしまうのだけれど、それでもそれに甘んじないようにすること


21

どれだけつぶやいたって無意味なのに、つぶやいてしまう。誰に向けたつぶやきなのか。自分、明日の自分、昨日の自分、あるいは他者、知らない誰か、知っている誰か、不特定な誰か。ふとしたアイデアを文字にする。流れているものをスッと掬い取る。


22

静止中あるいは等速度運動中の物体は、ほかの力が加わらないかぎり、その状態を続ける

ある物体の加速度は、それが受ける力に比例し、その物体の質量に反比例する

ある物体が第二の物体に力を加えるとき、第二の物体も第一の物体に力を加える。この二つの力の大きさは等しく、その方向は反対


23

悲観と楽観が同居している。


24

一昨日きやがれ


25

思考というものは、決して平等ではない。例えば、Aは安全か、危険か、という思考は平等ではなく、じつは「危険である」という結論が先取りされている。リスク思考は、リスク回避を先取りする。挑戦することのは安全か危険か、環境リスクがあるかどうか、子どもを作ることは子どもにとって幸福か不幸か、その行為は親切か迷惑か、誰かと仲良くなれるか傷付けられるか。必ず悪い方が先取りされる。その罠から逃れること。


26

論理的な思考をしているつもりでいる。しかし、実態は論理的な思考の結果、Aを選んでいるのではない。結論が先にあって、それに向かって論理を後付けしている。結果ありきの思考から逃れる方法。偶然性に身を委ねる方法。


27

生きることにはとっくに飽きている。後ろ向きな人生である。わたしは自分の意志で死ぬことはないだろう。意志ではなく、身体が死にたいと欲望したときに死ぬだろう。意志にできることは、死ぬことではなく、いつか身体が死ぬということを決意することだけだ。


28

わたしは料理が好きだ。上手ではない、単に作る工程が好きなのである。料理をすると「自然の偶然性」に触れられる。買いおいた野菜は部分的に痛んでいる。冷蔵庫にある調味料は何かが足りない。切る大きさもその時々で違う。炒めているときに宅配便が届いて一度火を止める。味噌を解く濃さも違う。味付けは気分次第だ。作る過程で「意志」に反する自然の偶然性に出会える。


29

取り止めのないつぶやきの羅列。意味を構成しない順序。生活のなかで思いついたつぶやきは、突飛で無意味だ。生活が偶然に晒されていることを意識する。




言葉の自然性、言葉は勝手に現れて、勝手に流れ出ている。まるで春のつくし、夏の日差し、あるいは秋の紅葉、冬の粉雪。

つぶやきは自然に流れ出る。

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