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エッセイ:タイムラインは、流れる河
こんにちは、デレラです。
noteでは、わたしはいろんな人をフォローするようにしています。
フォローされれば、記事を一切書いていない方を除いて、ほぼフォローバックするようにしています。
特に、わたしがこれまで興味を持ってこなかったことについて書いている方、
または、ご自分の興味関心について深掘りして書いている方は、
喜んでフォローバック。
わたしは、タイムラインを混沌とさせたいと思うんであります。
わたしの知らないことを知っている方、
わたしとは違う考えを持つ方をフォローして、
出来るだけ、タイムラインを雑多なものにしたいと考えるんであります。
100名を超えたあたりから、どんどんとタイムラインは混沌としていきました。
もうわたしにはコントロール不可能。
全てを見切れない、そこには、不可能性の快楽があります。
わたしの知らないところで、沢山の文章が創り出されている、ということ。
わたしの知らないひとが、わたしの知らない感覚で文章を書いている。
その果てしなさに、わたしは全てを読むことを諦めざるを得ません。
諦めの快楽。生成と諦念。
それでもわたしは、休み時間を使って、あるいは、仕事をサボって、
できるだけ上から順に読んでいきます。
タイムラインは、流れる河と化し、次々に記事が流れていきます。
小説、エッセイ、詩作、短歌、写真、解説、解釈、感想、映像、音声、音楽、イラスト、マンガ、旅行記、散歩。
あらゆる記事が混じり合う、タイムラインは、流れる河。
呪ったり、怨んだり、疑ったりする言葉を使って、
世界のイメージを、抉り出すように表現する詩作や小説もあれば、
喜んだり、憂いたり、癒されたりする言葉を使って、
世界のイメージを、細い糸を丁寧になぞるように描く詩作や小説もある。
選び抜かれた言葉で、目の前の事象を見事に切り分け、明確にするエッセイもあれば、
〇〇するための方法と題して、利便性を追求して、読者に利益をもたらさんとするエッセイもある。
道で見かけた綺麗な花の写真、散歩の途中で撮ったのでしょうか。
写し出された雲の形に、不思議と自分の気持ちを投射してしまうような空の写真。
撮った人の感情と、観ているわたしの感情が渾然一体となって、
いまのこの感情が、わたしのものなのか、撮った人のものなのか分からなくなる。
曖昧模糊な抽象世界に連れていかれる、そんな写真。
少ない言葉で、世界の儚さを描く短歌。
行きつけのご飯屋さんの写真、住んでいる街の写真。
好奇心と見事な分析で、本を解説する書評や読書感想文。
昨日のサッカーの試合結果。
古今東西、歴史上の人物の紹介。
日本の歴史の出来事を地図でトレースしながら、旅行記のように書き進める小説。
誰かの文章に、寄り添うような文章。
傷つく誰かに、優しく言葉をかける文章。
出来事の追体験。
西洋の神話からインスピレーションを得た小説とイラスト。
対話篇。
脳科学、意識についての解明、身体の研究。
身体の違和感。
音楽。
映画の感想。
傷ついた気持ちを、簡単には共感しかねるような鋭い言葉で表現する、詩作。
ナイフのような言葉を選び、周りを睨みつける、その視線。
共感を寄せ付けない文章。
アフォリズムと空想、あり得ない設定と饒舌で、
新しい「言葉」、あるいは、新しい「概念」を創り出す、
小説とも詩作ともエッセイとも読める実験的な文章。
虚構の生成。実験。
経営者の立場から、経済用語や時事問題を解説する文章。
モチベーションの高め方や、目標の管理。
処世術。
猜疑心と知性によって、言葉の無意味さ、言葉の不可能性を言い当て、
この世の中には真理などないと暴き立てる詩作。
虚無の暴露。
こころの温まる柔らかい言葉、世界を見つめる憂いの視線、
嫌な出来事があっても、それを包み込み、温めて、分解してしまうような、散文詩。
生の賛歌。
右を向けば世界を愛した文章があり、
左を向けば世界を呪う文章がある。
前を向けば知性と好奇心で世界を捉える文章があり、
後ろを向けば訳の分からない何かを捉える文章がある。
上を向けばファンタジーを描く文章があり、
下を向けば世俗を生き抜く力強い文章がある。
この多様性。
これらの複雑で、多様な作品群が、同じときに、同じ世界で書かれた、ということに驚かざるを得ません。
昨日のあの詩作を書いたひとも、二ヶ月前のあのエッセイを書いたひとも、
このとき、この世界にいる、という事実。
多様な世界観が、ずらっと同居している。
どれかが正しくて、どれかが間違っているのではありません。
あまりに複雑すぎて、わたしには正しさも間違いも確定できないんであります。
どれか一つが特別なのではない、ただ雑多に同居している、ということ。
多様な記事が同居している、ということは、多様なひとが同じ世界に同居しているということ。
当然のことだけれど、あいや、と驚いてしまうんであります。
あいや、あいやと驚き、笑い、目を細めて読みながら、これだ、これだとスキを押下する。
そこでふと、思うんであります、わたしは。
では、この多様性の世界のなかで、何を書こうか、と。
わたしの書いたものは、この混沌の河にのまれて、流れていってしまうのだなあ、と。
だけれども、書かれた文章がなければ、そもそも、この混沌の河の流れは存在しません。
全く異なる価値観、全く異なる世界の見方、全く異なる人生を送るひとびとが創る流れに、
ここはひとつ、身を任せてみようじゃありませんか。
この文章を、混沌のタイムライン、記事の大河に流そう。
そう決意して、わたしはエンターキーを押下するんであります。
おわり
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