デレラの読書録:村上春樹『一人称単数』
表題作含む8作の短編集。
「小説における描写は、単に描写なのであって、テーマや教訓などは無く、ましてや象徴的な意味はない」ということを、村上春樹はこの作品のなかで少なくとも二度書いている(p.97,p.209)。
しかし、本当にそうだろうか。
小説家という存在は(特に村上春樹は)、そんな単純な生き物では無いとわたしは信じている(実際は分からない、わたしがそう信じているだけだ)。
そう書かれているからと言って、必ずしもそうでは無い。
むしろ、そうで無いからこそ、敢えて書くのだ。
言いたいことをズラして書く。
それが小説家だろう。
そう、つまりは「ズレ」なのだ。
どういうことか。ズレというのは、言い換えれば違和感である。
こんなことを書きながら、村上は象徴的な意味などないかも知れないと書くのだ。
この短編集は「ズレ」に満ち満ちている。
別の男の名を呼びながら果てる女、中心がいくつもありながら外周を持たない円。
発売されていないレコード、ガールフレンドの兄、球場で売られる黒ビール、魅力的な醜女、喋る猿、そして、一人称単数である。
最も象徴的なのは、表題作でもある一人称単数だろう。
一人称単数とは何か。
シンプルに言えば「わたし」である。
あなたでも彼でも彼女でも誰かでもなく、「わたし」という一人称は、「このわたし」であるという点で「単数」である。
わたしは、わたしでしか無い。
我は我である。
この単数性が、掛け替えのなさや、体験や、孤独のようなものを生み出す。
普通であれば、わたしの単数性は「揺るがない」のであるが、村上春樹はそれを揺るがすのである。
わたしの単数性がズレる。
増えるのでも分裂するのでも無い、ズレるのだ。
わたしがわたしのまま、全く別のわたしに成る。
胡蝶の夢の如くだ。
それは勘違いや白昼夢や偶然的な出会いなどによって生じる。
そういうズレを看取したとき、わたしたちはどうしたら良いのだろうか。
おそらく何も出来まい。
受け容れて、流れに身を任せてみるしか無い。
さらに言えば、すでに今この「わたし」は、別のわたしがズレて横滑りしてきたものかも知れない。
受け容れるもなにも、すでにそう生きているかも知れないのだ。
村上春樹は、そういう一人称単数のズレについて書いているのではないか。
そう感じた。
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