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「スモーク」を観た


映画「スモーク」

見た

 まず、「良い映画を観た」とだけ言っておきたい。大きな起伏や衝撃は用いていないが、画面から目が離せない。コクが凄い映画だった。
 まだ観ていない方は、数人の登場人物たちが、各々の人生を生きるうちに人生を交差させていく映画。とだけ理解していてほしい。正直今回の記事とこの映画はあまり関係がないからだ。取り扱いたいのはタイトルにもなっている「スモーク」について。つまりタバコについてだ。

タバコ、というアイテム

 紙のタバコが好きだ。まず火をつける。ジジジと減り、最後には消える。その一連の所作には儀礼的な意義さえも感じる。
 「時間」を眺めることがあるだろうか。なんでもいい。昇る太陽、砂時計、グラスに注いだ水が乾いていく様、などなど。断言する、無いだろう。月に一度や年に一度はあるかもしれないが、連日連夜見続けるなんてことは、無いだろう。だが私たちが観測しているかどうかに関わらず、慈悲もなく時間というものは通りすぎる。命に限りがある私たちにとっては、今が一番若くて、老いている。日に数度の数分間、タバコに火をつけてから火種を揉み消すまでのあいだだけ、過ぎ行く時間は煙によって可視化される。その数分間だけは「今」が可視化される。連綿と続きながらも無自覚のうちに過ぎていく時間を捕らえこの手にしているその瞬間。刻々と時が過ぎる様を見せつけられることにより、否応なしに自分の人生を省み、顧みるその瞬間。産まれ、過ごし、死ぬ。指先で起こる輪廻に意識を向けるその瞬間こそが喫煙の醍醐味だと思う。

閑話休題

 私はラッキーストライクの青の6ミリを用いている。でも最近はマルボロに乗り換えるのもアリだとも思っている。なぜならウルトラマンの胸部に何となく似ているから。

タバコ、というアイテム2

 喫煙所で話すのが好きだ。親友から顔見知りまで、あの閉鎖空間で言葉を交わすときは、ほんの少しだけ雄弁になれる。
 例えば食後のとあるシーン。「喫煙所でも行きますか……。タバコ吸われます?」の次のシーン、そのことを想う。喫煙所での会話はその外に比べると冗長だ。少し話し、黙り、またどちらかが口を開く。その程度のコミュニケーションしかなされない。でも毎回、非常に満足ゆくものになるから不思議だ。
 突然だが私は友人が少ない方だ。人を数で認識する側の人種ではないため、そのことを憂いたり、誇ったりはしないが。抽象的な数字の話を抜け出して、現実に戻ってきてみるとこれが結構な問題なのだ。あまり人と仲良くなったりだとか話したりだとかを得意とせず、乗り越える努力をも怠って大人になってしまったため、はじめましての集いでは(規模が大きければ大きいほど)孤立する。すると手持ち無沙汰になる。よってタバコを吸いに行く。ガヤガヤした空間を抜け出して夜空の下でタバコを吸う。決まって二本吸う。あいつらとは合わねえな。俺はタバコが吸いたいから、外に出てきたんだ。決して馴染めないからとかではない。素面なら卒倒するような屈辱を支えてくれるのは、あの狭い喫煙所と450円のタバコだけだ。この時のタバコはいわば「許可」なのだ。人並みに上手く生きれなくても、ここに居ても良い、という。正直私がタバコを吸うのは、このタバコというアイテムが持つ「許し」のためなのかもしれない。ちなみに本が好きなのもほぼ同じ理由だろう。クラブの隅っこでタバコを吸うのも、クラスの隅っこで読書をするのも、こんな私でもそこに居て良いという許しを欲しているからかもしれない。
助けてくれ

終わりに

 タバコという、創作において魅力的でありつつ痛いアイテムを、まだ若いうちに作品に昇華しておくことで、ジジイになってまでタバコをテーマに何か創作をするようなキツい真似をしないように本記事を書いていることを留意していただきたい。


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