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本を「最後の一文から読み始める」という困った癖を20年間続けて、何かに気が付いた話

筆者には昔から、それ変だよ、と言われ続けている癖が1つある。

以前、上記の「大人の読書感想文を始めて、過去の自分と出会えた話」でも述べたように、筆者はこれまで、読書好きをただアピールしたいだけの"積ん読"主義者だった。(積ん読については、オモコロのこの記事をぜひ参照いただきたい。筆者も一言二言あるが、ここではその役目はオモコロに任せ割愛することとする。)

とにかく、筆者にとって本はファッションアイコンであり、本を読んでいる自分はカッコいいハズ、そんな気がしてやまないのだけれども、でも、現実では中々ページめくりが進まない。そんなジレンマについて、前回の記事では赤裸々に記したつもりだ。人生史上初と言っても過言ではないほどに、この上ない背伸びをしてようやく初めて、ヘミングウェイを読み終えることができたことにも触れ、そもそも読書ってそんな頑張るもんだっけ?という根本的な疑問はさておき、筆者の読書遍歴と、30歳を過ぎた今改めて読者の素敵さに気付いたその素直な気持ちを書いてみたというのが前回の記事の一応の主旨になる。

が、実は筆者には、まだ白状しきれていない性癖が1つ残っている。

良識ある読者諸賢におかれては既にお気付きかもしれないが、本稿もご多分に漏れず見るに堪えない駄文になろうかもしれない。けれども出来れば、しばしお付き合いいただけると大変有難い。


そのことを初めて指摘してくれたのは、確か小学校の時の担任の先生だったと記憶している。皆さんの通われていた学校にもあったかもしれないが、筆者の通っていた小学校だか中学校には、"朝の読書の時間"なるものがあって、登校後、朝の会の前、10分くらい、半ば強制的に本を読まされるイベントがあった。"強制的"と記載したのは、それこそ小学生当時の筆者は、クラスのガキ大将的な友人たちと同様に、本を読むことよりサッカーボールを犬のように追いかけていることの方がはるかに好きだったもので、その"朝の読書の時間"なるものが当初、苦痛以外のなにものでもなかったように記憶しているからだ。

当時何より困ったのは、そもそも何の本を読もうかという点である。何しろこちとら、別に大して本に興味はない。そんなことより、今日も大好きなあの子の笑顔はやっぱり可愛い。それだけで幸せな気持ちになれた朝。皆さんにもあったであろう、淡い恋の思い出である(なかったとは言わせない)。毎朝彼女の笑顔を見れる、それだけで幸せであり、読書なんかどうだっていいんですよこっちは。小学生の時に好きだったさっちゃん、君は今もどこかで幸せに暮らしているだろうか。

斯様にパッパラパーであった僕は、教室の隣にある図書室で毎朝、今日は何の本を読もうか途方に暮れていたように記憶している。

小学校の図書室だけあって、その一室は児童書だらけであった(ハズ)と記憶しているが、勿論、教養的な文学作品もある程度揃っていた(ハズ)の中で、その当時の僕は毎朝、あらゆる本をめくっては"最後の一文"だけを読んで今日読む本を決めるという奇行に走っていた。勿論、当の本人にとっては至って大真面目であり、ただ一心不乱に、"最後の一文"から受けとるインスピレーションのみで、その本の世界観を探っていたのである。そんな僕をみて、当時の担任の先生は言った。"吉田くん、変わった選び方するなあ。"笑顔の素敵な先生だった。

以降、高校ー大学ー社会人となった今でも、本を買う際、僕は必ずその本の最後の一文を読み、そのインスピレーションでその本を読むか読まないか決めることにしている。この癖は、TwitterでもBlogでもmixiでもFacebookでもずっと公言し続けてきたのだけれど、これまでこの行為の醍醐味に共感してくれる人は中々いなかったように思う。みな決まって一様に言う。"何それ、変なの。"そんなの、本人が一番良くわかっている。

今日は20年間、本を"最後の一文"から読み始めることで気が付いた、この世界の法則について、私見を述べてみたい。

はじめに断っておくと、筆者はいわゆる"ネタバレ"については割と避けようとするタイプの人間である(ネタバレ論争についても、過去、オモコロで議論があるので読者諸賢に置かれてはぜひ参照されたい。)。映画も漫画もアニメも小説も、雑談の中でネタバレされそうになれば、出来ればやめて欲しいと言うし、まあネタバレされたからと言って別に怒るようなものでもないとは思っているのだけれど、でもやっぱり、可能なら物語は真っさらな状態で楽しみたいとは思う。そんなスタンスの人間である。

すなわち、ここで言う"最後の一文を読む"は、ネタバレ云々とは全く次元の異なる行為であることはあらかじめ明記しておきたい。


"最後の一文"とは、文字通り、その本の最後の一文になる。物語としての最後であり、作品としての最後であり、本という物理的な存在の最後でもある。おそらく読者である貴方は、何らかのきっかけでその本を手に取り読み始め、その作品に時には没頭し、時には自分の人生と照らし合わせながら、喜怒哀楽を含めてあらゆる感情を作品と共有する。それこそ激しく心揺さぶられたりしちゃいながら、その作品の全てを乗り越えたその時に、読者として最後に辿り着く文章。それが"最後の一文"だ。

読書の魅力の1つに、その作品を読み終えた後の"読了感"を挙げられる方は少なくないと思うが、それをピンポイントで左右するのも、"最後の一文"が果たす役割が多分に大きいと思われる。僕は小説家でも何でもないけれど、作品の仕上げとしての"最後の一文"がいかに作者の思い入れが入るものなのか、それこそ僕の想像なんて遥かに超える何かがあるんじゃなかろうかと勝手に思っている。だって、その作品はそこで全て終わってしまうのだから。

これは小説に限ったことではないと思うけれど、"何かの終わり"は、時として人の心を激しく捉えてやまない。僕自身の出来事になるけれど、そういえば最近、3年くらい従事してきたある1つの大きな仕事が終わりを迎え、そのプロジェクトチームが解散することとなった。それこそ、苦楽を共にしてきた多くの仕事仲間との別れであり、それまでの日々はそのプロジェクトを進めることで必死だったけれど、無事に終わりを迎えたその時ようやく、そしてこの歳になって初めて、こういったある種の"仕事が終わった瞬間"の寂寥感や仲間との別れこそが、仕事の醍醐味そのものなのではないかと思うようになった。

自分はしがないサラリーマンに過ぎないけれど、こうした別れが、1つの区切りが、また次の新たな仕事の活力に繋がる。この世は"出会いと別れ"ではなくて、"別れと、そして出会い"なのだと、とても強く思わされた出来事だった。また次の新しい出会いが待っていると分かっているから、人はその時その時の別れを受け入れられるのではないか。

本における"最後の一文"に、本当にそんな大げさな思いがつまっているのかどうかは果たして分からないけれど、それでもその一文は、僕に独特な感覚を強く与える。それは大抵の場合、物語の最後という文脈でもなければとても平凡な、何気ない日本語の一文に過ぎないのだけれど、だけれどそれは、その"最後の一文"という役割においては、その物語の総括となり、その作品の世界観そのものを凝縮した一文となるのだ。ここまで物語を必死に書き上げてきた筆者が、その最後に選んだ文章。それが"最後の一文"なのである。

けれど、ではいざ最初に、"最後の一文"だけを読んでみようとすると、その文章が何を意味しているのか、はっきり言って貴方は初見では全く理解できないハズだ。それが例えば、物語の結末や後日の出来事なんかを記述している一文となっているのならまだしも、特に主人公の心情を表しているような記述になっているとなるともうお手上げで、その文章で何を言いたいのかマジで全く分からない。それこそただの、平凡な何気ない日本語の一文でしかない。(それが故に、ネタバレにさえ全くならない。)

そんな"最後の一文"を初めに見て、頭の片隅にいれて、あるいは場合によっては、もはやその一文は完全に忘れてしまっても良い、そうして冒頭からその作品を読み進め、様々な感情を通り過ぎて、そしてまた、"最後の一文"にたどり着いた時、その時貴方は、初見で見た日本語とは全く違う印象を、その"最後の一文"に抱くハズだ。物語を知る前と、知った後で、日本語として全く同一であるその文章は、全く違う意味を持つことになる。作者が何故その日本語を"最後の一文"に採用したか、その時になって初めて分かる。その発見が、僕にとっての読書の面白さの本質であり、この世界で新たな出会いに向かう出発点であるように思う。


2019年2月14日の記事で、ワシントンポスト紙が「The 23 most unforgettable
last sentences in fiction
(最も忘れられない、小説の最後の一文、23選)」と題して、様々な作品の"最後の一文"をランキング形式で紹介している。その冒頭の一部を引用したい。

For the Olympic gymnast, success comes down to how well she sticks the landing. A flubbed dismount sullies even the most awe-inspiring routine.

ーそれはオリンピックの体操競技に似ている。それまでどんなに完璧な演技をこなしてきたとしても、最後の着地が、全ての判定を決定する。

Stock-still at their desks, novelists face a similar demand for a perfectly choreographed last move. We follow them across hundreds of thousands of words, but the final line can make or break a book. It determines if parting is such sweet sorrow or a thudding disappointment.

ー小説も同様であり、私たちが辿ってきた何十万語で綴られている物語の結末として、その最後の一行が全ての出来を左右する。その物語との別れが、甘い切なさをもたらすか、あるいはひどい失望となってしまうのか、その一行にかかっているのだ。


終わりは終わりを続けていく。それは、その物語が"ここで終わる"ことを明確にするために必要な存在であり、そしてその区切りが必ず来ることを知っているから、僕たちはまた新たな未来が来ることを信じて今を頑張れるし、あるいは決して忘れてしまわないように、この今を大切にできるのかもしれない。


皆さんもよければぜひ、本を「"最後の一文"から読む」試してみてください。

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