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流山市教委いじめ不適切対応問題を受けて ―30年前に流山市の小学生だった者より

私は小学生のころ、千葉県流山市に住んでいた時期がある。同市内の某小学校で、私は担任教師からの虐待と児童からのいじめを経験し、心を病んだ。精神科医から複雑性PTSDとの診断を受けたのは、30代も半ばになってからだった。

※私は実家の家庭環境も複雑で、それによってもトラウマを受けているが、私への複雑性PTSDの診断は、小学校の担任から受けた身体的暴力が決め手となって下された。

ここしばらく、Twitterなどで「流山市教委」「いじめ」というキーワードを目にするようになり、そのたびに心がざわついていた。しばし、なんとか無視しようと心の中でじたばたしたものの、今日、やはり逃れられないと観念したので、いろいろと語っておきたいと思う。

千葉大学教授・藤川大祐氏による告発「流山市教委の法令違反かつ不適切ないじめ問題対応について」

千葉大学教育学部教授の藤川大祐氏が、千葉県流山市教育委員会の、重大ないじめに対する法令違反かつ不適切な対応について記者会見を開いた。これが10月21日。

藤川氏はその後、教育委員会がなぜ法令違反かつ不適切な対応をしがちになってしまうかの構造的問題について分析するブログを発表している。

このブログについて私がツイートした感想が以下。

「凡庸な悪」の叫び声が聞こえる

私が、数百万人のユダヤ人を強制収容所に移送したアイヒマンの話を知って考えたのは、以下のようなことだ。

悪を行う者は、ずば抜けて有能であったり、明確な悪意があったりするとは限らない。悪を行うものは、かえって凡庸で、まじめで、権力に従順で、目の前の仕事については誠実で、集団への適応力があったりする……

私にはそうした、「凡庸な悪」アイヒマンの姿は、現代日本の教育委員会にありがちな人々の姿と重なって見える。

もっと言えば、率先して虐待を行う者、率先していじめを行う者…… 私に虐待やいじめを行ってきた人たちの姿も、アイヒマンに重なって見える。

彼らは実のところ、権力に強く恐怖しており、「空気」を読むのが得意だ。自らが「排除され虐げられる側」に回るのを避けるために、自分の半径数メートルの日常の安全を守るために、周囲に対してとても従順に振る舞おうとするし、従順に振る舞うことができる。

私は、このように思う。

「空気」が、「皆と同じであれ、集団の同質性を守れ、異なった者を排除しろ」と言えば、彼らはそうする。
「空気」が、「快活であれ、いつも強くあれ、弱音は吐くな」と言えば、彼らはそうする。
「空気」が、「優れた者/まともな者以外は痛めつけろ、殺せ」と言えば、彼らはそうする。
「空気」が、「常に世の中の役に立つものであれ、世の中に『迷惑』をかける者は死すべし」と言えば、彼らはそうする。
「空気」が、「目上の者にたてつくな」と言えば、彼らはそうする。

私には、彼ら「凡庸な悪」の叫び声が聞こえる。私は、彼らに殴られ、引き倒され、持ち物を壊され、嘲笑され、罵倒され、排除され、たらいまわしにされ、無実の罪でつるしあげられながら、彼らの声にならない叫びを聴きつづけてきた。

彼らも彼らで、いつかの時点で「空気」の被害者なのだ。彼らはおびえきっているのだ。「自分よりも下に位置する者がいる、自分には力がある、自分は安全なのだ」ということを確認して安心するために、私の顔を踏みつける。発達障害があり、彼らと同じようには振る舞えなかった私は、スケープゴートとして便利だったことだろう。

また同時に…... 私自身にもわずかに、「凡庸な悪」であった瞬間はあった。不思議なことに、私への攻撃の空気がふっとゆるむ瞬間、クラス一のスケープゴートの座がほかの子にゆらぐ瞬間というのがあった。そういうときには、私は「できるだけこの束の間の安全が続くように」「自分がいちばん下でないと思いたい」と願いながら、周囲と一緒になってほかの子をいじめた。

本当に申し訳なかった…… 許してくれとは言わない。こういうことは、許す許さないの問題ではない。一度つけた傷は消えないのだ。本当に申し訳なかった。私はあのとき、卑怯で狡猾だった。背景にどんな理由があれ、私があなたを傷つけたのは事実だ。申し訳なかった。あなたが今、できるだけ元気で幸せでいてくれることを願う。

1980年代、流山市内の某小学校で

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以下、人によってはフラッシュバックなどの体調不良や精神的ショックが起こる可能性があるので、苦手な方はご注意ください。
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体育以外の成績がよかった一方で、体育がてんで苦手、言動がどこか変わっていて周囲となじめなかった私は、もともといじめられがちだった。

4年生のときの担任、S・N(女性)は、すぐに激昂して児童に暴力を振るったり、芝居じみて酔ったような声色で児童を説教することが多かったため、児童から嫌われていた。

運動会の練習をしていたときのこと。児童は炎天下で立たされ、水も飲ませてもらえずに繰り返し練習させられている中、S・Nだけが日陰に立っている。

私はムッとして言った。「どうして先生だけ日陰に立ってるの?」

S・Nは真っ赤になって、唾を飛ばして叫んだ。「大人はいいんだ! なんて生意気な口をきく子なんだ! 」

私は食い下がった。「どうして? どうして大人はいいって言えるの? どうして子どもは日当たりで大人は日陰って決まってるの? どうして私を生意気って言えるの?」

彼女は罵った。「宇樹さん、あなたには目上の人を敬うという気持ちがないの? ふざけるのはいいかげんにしなさい!」

その日以来、S・Nから私への執拗な虐待が始まった。しょっちゅう、何か口実をこじつけては私に暴力をふるうのだ。

体育のときに、集合に一瞬でも遅れたら「いつまでボーッとしてるんだ! バカにしてるのか!」と叫び、私の髪をつかんで引き回す。理科の授業でアゲハチョウのさなぎをそうーっと触ったら、「そうするっていうのは、こうするのと同じことだ!」と叫んで、私の腕を痣ができるほどつねる。

私はもともとほかの児童から異端分子として見られていたので、かばってくれる児童はいなかった。S・Nはいま思えばそういったあたりの空気を掴むのも非常に上手だった。少しでも逆らえばすぐにキレる担任教師として、私をうまく見せしめに使って恐怖政治を敷いていたようなところがある。

それに、よくわからないけれども、これくらいの年頃の一般的な子どもの中には、根拠もなしに「大人=正しい」と素直に信じている者も多いみたいだ。私は30歳過ぎてからこの話を知ってものすごく驚いた。だからきっと、クラスの児童たちは、私が「目上の人を敬う気持ちのない生意気な子で、ふざけている」「バカにしたような態度でデレデレと集合せずにいた」「アゲハチョウのさなぎをひどく乱暴に扱った」と素直に受け取っていただろう。

そのようにして、クラスの児童の大半にしっかりと「宇樹=悪者」という印象が植えつけられたころ、S・Nはついに決定的な行動に出た。

学級会での濡れ衣による吊し上げ

以下は、私が大学の卒業論文として提出した私小説に書いた、そのときのエピソードだ。いまこの話を詳細に思い出して克明に書くのは苦痛なので、まるっと引用して済ませようと思う。少し長いが、申し訳ない。(名前のみ、「S・N」と「宇樹」で差し替える)

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 冬になった。なにかを採決する、多数決の時間。こどもらは全員、机にふせていた。教室をみわたせるのは教壇にたったS・Nだけだった。わたしは行儀よく、自分のうででつくった輪のなかに顔をうずめていた。その輪のなかで、つくえの表面にほられた「死ね」という文字があまりに近すぎるためにぼやけてみえるのを、見るともなく見ていた。じぶんの息が、じぶんの胸をあたためる、そんなうすら眠たい時間のなかで、その日の「罰」ははじまった。

「宇樹さん」妙に毅然とした声でS・Nが呼んだ。

 一瞬で全身が耳になって、はりつめる。ちかごろひんぱんにわたしをおそう、あの感覚にじぶんをうばわれそうで、あわてて伏せたままわたしは、おおきな声をはりあげて返事をする。

「あなたはいま、自分がいったい何をしたかわかっていますか?」S・Nは、そう質問をつづけた。わたしは伏せたまま、正直にわかりませんとこたえる。だって、こんな質問をされる理由じたいが、わたしにはわからない。それにむっとして、そっくりそのまま、わかりませんとこたえてやる。

「顔をあげなさい!」S・Nはさけぶ。どうやらお気にめさなかったようだ。あなたは今いったいなにをしていたのかときいているんです、ハキハキとかみしめるように、S・Nはいう。わたしはていねいにこたえる。わたし、なにもしてません。S・Nはくりかえす。答えなさい。なにをしていたの。なにをしていたの。なにをしていたの。S・Nはじょじょに顔を血をまっかにそめながら。そのことばが、わたしをきょうもぱんぱんにふくらます。じぶんがなにをしているのかわかってないのは、あんたのほうだ。わたしは、だまされない。この世のぜんいんがあんたにだまされようと、わたしだけはだまされない。

「私はなにもしてません。いったい私がなにをしたっていうんですか。おしえてください」

「知ってるくせに、ねえ? どこまでしらばっくれる気なの、この子は」

 S・Nは、こんどはきみのわるい陽気のていで、両のまゆを上下しながら教室をみわたす。そのことばでこどもらに、宇樹義子がいかに軽蔑すべき存在であるかを教えこむ。

 いつしか、採決がきまるまで机にふせるというルールは完全にとかれ、クラスの全員がわたしを注視している。背筋がゆっくりとつめたくなり、そして、熱くなる。熱せられてわたしは、問いかえす。

「先生は、知ってるんですか」

 S・Nは、舞うようにくるりとまわってみせる。わたしの質問にはこたえない。こたえない気だ。ぜったいにこたえない気だ。だって、やつは知っている、こんなときに、宇樹義子をかばってくれるような友人など、もうとうのむかしにいなくなっていることを。それが、ときにさりげなく、ときにあからさまにつかいつづけてきた、じぶんのすてきなちからによるものだということを。いかれてる。狂ってる。この女は狂ってる。

「おしえてください! 先生は知ってるんですか! 」わたしはさけんだ。教室じゅうのまどガラスが、わたしの声にバンと音をたてる。

 それがさいごだった。S・Nはおおまたでわたしに歩みより、雪の結晶のかわいらしい刺繍のついたわたしのブラウスのえり首をわしづかみにする。母がえらんでくれた、だいじなブラウス。きれいなエリにはきっと、よごれたS・Nの手のあとがついていつまでも消えない、わたしはかたい棒きれのようになって、あしのうらは、手品のようにあっけなく、教室の床から剥がされる。せめてこのからだが、あとすこしでも重かったらよかった。

 強情をはるのもいいかげんにしなさい! 自分がやったことのみにくさをみとめて謝罪するまで、教室に入れてあげません! わたしはS・Nの魔法のてのひらにはねとばされて、こおった廊下にころがる。きゅっと音をたてて、みがかれた床についたてのひらがひきつれる。熱い。こちらを凝視する子どもらの肩が、一様にこわばっているのが見える。すきなだけ廊下に立っていればいい、そういいのこしてS・Nは教室のドアをしめた。ついで、教室のまえとうしろの扉に錠のかけられるかわいた音がひびき、それっきりこの小学校の廊下はしずまりかえった。どうせ、その錠だって、前にひとり、うしろにひとりの子どもにいいつけて掛けさせたにちがいない。

 死んでもあやまるまいとおもった。先祖にちかってもそんな、みっともないことはすまい、まずはからだからながれでるまま、ありったけの涙をながし、ありったけのちからでこぶしをにぎりしめた。わたしのうすい爪はぐにゃりと曲がって、おぞ気がはしり、それでもわたしはにぎりしめて、てのひらには血がにじんだ。つかれた。つかれたから、頭のなかでくだらない歌をつくって、声をださずにうたった。何曲も何曲もうたった。やけになってうたった。うたいすぎて、からだがしんまで冷え、指先はむらさきいろになった。トイレにいきたくなったが、ぬれぎぬといえど、そして担任の教師がいま、ちぢこまった子どもらにうわすべりした熱弁をふるっているといえど、立たされている身分のわたしが許可なしにトイレにいくのもどうかという思いがかすめた。ああ、阿呆らしい。この期におよんでそんなことを心配しているじぶんが阿呆らしい。

 そうだ、いっそのこと、日がくれても、戸じまりのおじさんがかえってしまってもいさぎよく立ちつづけて、ぼうこうをハレツさせて、そこいらじゅうを尿びたしにして、まっさおになってぶっ倒れてやろう。そこまでやればきっとわたしにだって、あのどこまでも恥しらずなS・Nを恥じいらせることができる。そして、みなのウツクシイ同情をかってやろう。同情だの、愛だの、皆が皆、すなおにだいすきなのだ、それがいちばん賢明だ。ずらりとならんだ体操ぶくろのフックを、ひたすらにみつめた。キルティングされた布でつくられた体操ぶくろ、その格子にあわさるステッチが、ぶよぶよとぼやけ、かさなりあう。

 休み時間がやってきた。チャイムが鳴りおわると、錠のはずされる音がし、こどもらが廊下へとながれだす。わたしは立ったまま、かれらがわたしをとりかこむのを待つ。ほんとうのはずかしめはこれからだ。すべてが萎えてしまうのはこのあとだ。遠巻きにわたしをかこむ、無数の子どもらの視線。だって、この子はわるいこなんでしょ? ただそれだけを根拠として、わたしのすべてをいともかんたんにさげすんでみせる。わたしもかれらも、たった一〇歳、うまれて一〇年、けれどわたしには、うまれかわったって真似できない、これまで生きてきたなかで、あれほどつめたくおそろしいものを、ほかに知らない。

 えー、なに、なに?ズルだよ、ズル。うそー。やだあ、かわいそーう。さむそーう。たのしみにみちた憶測。同情のかたちをしたちいさな祭り。それらは、とてもおごそかにおこなわれる。わたしにはもはや温度もない、感じることもできない、指のいっぽんをうごかす意志もない。わたしは死体だ。つまり死体なのだ。かれらはきっとそういいたいのだ。そういわれれば、だんだんとそんな気がしてくる、そしてついには、さからうちからさえわたしはうしなう。
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簡単に言えばこれは、「担任教師S・Nが、宇樹を痛めつけるために、児童の誰にも真実がバレない瞬間を選んで、ありもしない罪をでっちあげ、宇樹を吊し上げた」というできごとだ。人間はここまで狡猾になれるのかと、今でも私は舌を巻く。

結局私はこのあと、耐えきれずにウワァーンと声をあげて泣きながら「ごめんなざいーーーー」と叫んで教室に入れてもらった。その後、児童からの私へのいじめが大幅に悪化したことは言うまでもない。

そして、その後

私は今までの人生の中で、あのときほどの屈辱を知らない。なぜあのとき徹底的に抵抗しなかったのかと、今でも悔しくて震えてくる。その一方で、誰かのひそひそ声や笑い声が私を嘲笑しているように思えて、怖くてたまらなくなる。馬鹿らしいと自分でも思うけれど、あのころと同年齢の子どもたちがいまだに怖くて、すれ違うときに足が震える。

引用文の途中に出てくる「あの感覚」とは離人感のことだ。魂が抜けたようになって現実感がなくなり、五感が鈍り、すべてが夢の中のできごとのように感じられるようになる症状。トラウマ性疾患で起きる症状のひとつだ。中学校から大学ぐらいのころはこの離人感がメインの苦しみで、誰に話しても理解してもらえなかった。

離人感は「解離」と言われる、心身のつながりがうまく機能しなくなる症状のうちのひとつだ。解離の中には、解離性健忘と呼ばれる、解離している間の記憶が抜け落ちるものもある。おかげで、ここ数十年の記憶はかなり薄いところが多い。解離系の症状は最近はかなりマシになったが、正直言って、ずっと死にたい気持ちとともに生きてきた。

眠れば、今でもあの日のできごとが悪夢となって私を襲う。全身に刺さる同級生らの侮蔑の目の冷たさが、どれだけ必死に説明してもだれもまともに聞いてくれない絶望の痛みが。

トラウマ治療を経てかなり回復した今は、あのシーンそのものをリアルに再現するような夢はほとんど見なくなったが、「周囲にたくさん人がいる中で何かの誤解を受けたり疑いをかけられたりして、必死に説明しても誰も聞いてくれない、あるいは説明しようとしても言葉が出てこない」という夢は週に一度は見る。

あれは私にとって、世界への信頼を決定的に裏切られるような経験だった。あの日のことが少しだけ楽に思い出せるようにはなっても、忘れることは一生できないだろう。

私は今回、自分にとって最もトラウマティックな経験を書いただけで、小学校時代に受けた心の傷はほかにもたくさんある。5・6年時の担任S・Mもそれはそれはひどかった。不登校傾向の子どももたくさんいた。そしてそういう子は、腕を無理やり引っ張られ引きずられて教室に連れ込まれていた。そしてそういうできごとがみんな、ごく普通のことみたいに扱われていた。

なんというか、あの当時の流山市の小学校界隈自体が、そういう加害的な雰囲気に満ちていたとしか言いようがない。きっとS・Nは、誰にきちんと問題視されることもなく、あのままのうのうと定年まで勤めあげたんだろうと思う。だから、今回の報道を見ても「さもありなん」と思うばかりだ。

書くべきエピソードはもっとたくさんあるのだが、ちょっと今日はもう精神的に限界なので、ここらで勘弁してほしい。

ヒュー、当時私をいじめたやつら、見てる? 私が一度学級会でキレて、「私はきっと将来本を出して、私をいじめた全員の名前をフルネームで書いてやるから覚えてろ!」と言ったら、「ひどい、そこまでしなくていいじゃないか!」って言ったね。なんか、ひどいひどいって言いながら感極まって泣きだしたやつもいたね。それをS・Mが「喧嘩両成敗!」とか言って無理やりまとめたんだっけね。S・Mも覚えてる? 私は鮮明に覚えてるね。忘れたくても忘れられないよ。夢に出てくるんだからね。こういう苦しみのためにいったい私は何年の遠回りをして、いったい何百万ぶんの、あるいは何千万円ぶんの経済的な損をしたかなあ。お前たちがお前たちの精神的安全のために私に与えたそういう損害について、お前たちマジでどう思う?

そんなわけで、おかげさまで私も本を出したよ。でも、お前らにはお前らの人生があるだろうから、お前らの名前は書かないでおいてやったよ。優しいだろ。悪かったと少しでも思うところがあるなら、謝りにこなくていいから、この本を1冊でも10冊でも買ってくれ。そして広めてくれ。私は、あのあとそれなりにツルッと世の中生き抜いてきたかもしれないお前らとは違った形で社会に関わっていくんだ、覚えてろ。

覚えてろ。

私も一生覚えてるから。自分が自分のつかの間の安全と腹いせのために、ほかの子をいじめたという、自分の成した罪も含めて。


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