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「まだ日本を信じられた時代」へのレクイエム

私は1980年代の生まれなので、バブル崩壊前の、まだ成長神話の信じられていた日本の空気を少しだけ覚えている。昨晩布団でうつらうつらしていたとき、なぜか突然「まだ豊かだった日本」のさまざまなシーンが、「まだ私が世界を信じていたときの幸福」と絡まりあって脳裏を去来し、つらくなって泣いてしまった。

急にこんな心境に至ったのは、先日、話題の映画『JOKER』を観て激しく心をかき乱されたからか、はたまた、小学校時代のことを思い出す一件があったからかはわからない。

ともかく、自分自身を慰撫するために、あのころの情景を書き留めておきたい。

駅前の商店街とスーパー、国道沿いのレストラン、そして新興住宅地のわが家

最寄り駅の商店街には、その地域随一のスーパーがあった。私が幼稚園から小学校低学年ぐらいのころだったと思う。スーパーは、土地はそれほど広くないものの2階建てだった。まだ小さかった私には、2階へと続く赤褐色の階段が「宮殿を上る大階段」のように大きなものに見えた。

そのスーパーがらみの思い出といえば、父はワーカホリック、母もフルタイムで働いていたために主に祖父母に育てられていた私が、祖母に連れられて買い物に行ったことだ。

祖母はひとことで言って、異常な性格だった。おそらくいわゆるサイコパスだと思うのだが、彼女には独特の冷酷さや悪意があった。私が大きくなり、多少ものの道理がわかって楯突くようになってからは、相手が孫娘だろうと悪意に満ちた嫌がらせをするようになったが、さすがに幼稚園ぐらいまでの私には、ときどき独特の冷酷さをのぞかせるだけだった。

私がまだ2,3歳で、「ものを買う」という概念を理解していなかったころ、子供向けのソーセージ(ドラえもんとかアンパンマンとかキキララとか、ああいうキャラがパッケージに描かれていたやつだ)を開けて食べてしまい、祖母が店の人に謝ってお金を払ったこと。
私が幼稚園の年長ぐらいのとき、祖母に「◯◯スーパーでおちんちん買ってきて」と頼んだこと。
私が小学校低学年ぐらいのとき、祖母の買い物を待つうちに「こてっちゃん」の試食販売に引っかかって、おじさんが焼けるたびにくれるのをもりもり食べていたら、祖母が悪がって1パック買って帰ったこと。
買い物についていくたびに、「グリコのキャラメル」やら「セボンスター」やら、おもちゃつきのお菓子を買ってもらって、プラスチック製の小さくて可愛い家具や、キラキラしたアクセサリーを集めていたこと。
あの「大階段」の入りくんだ隙間におもちゃだか何か落としてしまって、「ああ、あれはきっと誰に拾われることもなく永遠にあそこにあるんだろうな」みたいなことを思ったこと。

こんなことも思い出す。商店街の一角にサンリオのお店があって、何か少し買って「プレゼント包装にしてください」と言うと、可愛い包装紙で包んで、シールで小さなおまけを留めつけてくれた。私たちはその包装紙とおまけ欲しさに、用もないのにプレゼント包装ばかり頼んでいた。いま思えば、あんな贅沢なサービスは、日本経済に余裕があったからこそできたのだろう。

小学生の間では「匂い玉」やキラキラのシールを交換するのが流行り、「なかよし」などの漫画雑誌では、切手を所定の金額入れて送ると送ってくれる特別付録のようなものがあった。これが質・量ともにとても豪華なもので、私たちはせっせとそういった付録を集めた。

車で少し行った国道沿いにあるレストラン街には、贅沢なサラダバーや、肉や伊勢エビの食べ放題のある店が建った。大食いの巨漢だった父と食べざかりの兄が店の想定を超えて食べるので、おかわりの盛りがだんだんと小さくなったり、店の人に渋い顔をされたりしたものだった。誕生日には、デザートのアイスクリームに花火がパチパチ言いながら出てきて、目をパチクリさせながら驚いたのを、いまでも強烈に覚えている。

当時役職がついただかで出世しつつあった父は、外食に行くと「いちばん高いものを食え」と言い、「空気清浄機」みたいな性格の兄はそれでも遠慮して中くらいの値段のものを食べた。空気の読めない私は迷いなくいちばん高いものを注文して、兄にこそこそとたしなめられた。店の伝票を、父は頑なに見せてくれず、「子どもにはこういうものは見せるもんじゃない」と、どことなく嬉しそうな顔で言った。よくよく思い出してみれば、当時の父はいまの私と同じくらいの歳だ。

母は団塊の世代で、まだ更年期手前ぐらいの年齢だった。肩パッドの入った原色のスーツに赤い口紅をひき(必ずランコムのやつだった)、ソバージュの髪をなびかせ、イヴ・サンローランのパンプスで仕事に行った。

今となっては、祖母を疑うことも知らず、優しかった祖父もまだ生きており、もぼちぼちまともさと健康さを保っていて、伯父も元気で、学校でもまだ決定的なトラウマを負う前だったあのころは、私はそれなりに幸福だった。

その幸福は、とても繊細なバランスで保たれていた危ういものではあった。しかし、戦後に開拓された新興住宅地に位置したあのころまでのわが家は、確かに、まだ労働者の努力が富として返ってきた時代のいち家庭として、そこそこ賑やかに、円滑に成り立っていた。

時代が変わってゆく

いま思えば、あのころからいろいろな変化が始まっていた。私が近所の友人と二人で遊んでいたら、休みの日にめずらしく家で元気にしていた母から100円玉を渡され、「二人でアイスでも買って食べなさい」と言われた。

いつものとおり、50円のアイスを2本持ってレジに行くと、店のおばさんが申し訳なさそうに「ごめんね、今日からは100円じゃないのよ」と言う。なにやら、消費税というものが導入されて、100円がきっかり100円じゃなくなるらしいのだ。

私と友人はぶんむくれながら、100円にならない額の、2本に割って食べられるソーダ味のアイスを買い、二人で分けて食べた。この日のことは、なんとも意味のわからない、コントロール不能で不気味な、うっすら腹の立つこととして、強く記憶に残っている。

これはどうも、いま調べたところによると1989年のことらしい。確か同じころに、それまで40円だったハガキの郵便料金が41円になった。
(今となってはこれが63円になっていて、振り返ってみてちょっと驚いた。よくわからないんだけど、知らないうちにじわじわと高くなりすぎじゃないか?)

そして、私が小学校高学年ぐらいになるころには、駅前の商店街にあったスーパーは、商店街から少し外れた、いま思えば多少車で来やすいところに移転した。跡地は短いスパンでいろいろ入ってはつぶれ、入ってはつぶれをくりかえして、結局、百均とカラオケ屋で落ちついた。

そのころにはわが家一帯の住宅地は、年月の経過とともに徐々に古びつつあった。わが家では、私が小学校に上がるかどうかのころに祖父母世代の家のとなりに両親が新しい家を建てていたが、徐々に心身の調子を崩していっていた母が、そこへ映画を録画したビデオや百均のカゴなどを溜めこんでいき、瀟洒な輸入住宅はあっという間にガラクタでいっぱいになっていった。

前後して、私は小学校で決定的なトラウマを負い、祖父は死に、伯父も調子を崩した。父は仕事で単身赴任を繰り返すようになって(いま思えば、バブル崩壊後の会社の事業立て直しに忙殺されてもいたのだと思う)、家に寄りつかなくなった。わが家は一気に寂しくなり、反比例するようにモノとホコリがたまり、電球は切れ、エアコンは壊れ、屋根や外壁の塗装は剥がれ、床下にはシロアリが巣を作り、それらがすべてなあなあのまま放置された。家族への祖母の嫌がらせには拍車がかかり、母はどんどんおかしくなっていった。

当時は、ちょうどバブル崩壊のころ。改めて考えれば、わが街・わが家の上記のような変化も、日本の大きな経済的潮流の変化が影響しているに違いないし、日本中のさまざまな街や家庭が、わが街・わが家と似たような運命をたどっていることだろうと思う。

駅前の商店街は、スーパーが移転したことを最終的なきっかけとして廃れに廃れ、今や多少元気なのはコンビニと上記の百均ぐらいだ。並行して、駅からやや離れた、車で行きやすい通りが再開発され、飲食店や大型商業施設が建った。

「信頼できない日本」を原風景とする世代のために

私はおそらく、わずかでも「まだ明るい未来を信じることのできる日本」の姿を記憶している最後ぐらいの世代だろう。私よりも5つとか10とか下の世代は、物心ついたときにはすでに日本は「未来が真っ暗で見えない」ようなところになっていたはずだ。

(たとえそれが狂乱の明るさだったのだとしても)わずかでも明るい日本の残り香を嗅ぐことのできた私たちと、それすら嗅げなかったそれ以降の世代と、どちらが幸福なのだろう。ひとことでいえないなあ…… そもそも、こんなことを比較するのが間違っているのかもしれない。

記憶の中でわずかに輝くような、私の短かった子ども時代は、二度と戻ってこない。社会的な意味でも、生物的な意味でも。私は、「自分はこうしたものたちを徹底的に失ってきたのだ」とようやくはっきり認識したいま、すでに齢は40手前だ。おそらく、喪失の痛みに打ちひしがれている暇などはなくて、自分がまだ壮年のうちに、ひとりの大人として次世代のためにやるべきことを順序よくこなしていかなければならないのだろう。

願わくば、この経験と知識と成熟を持った頭に、まだ若い、伸びるばかりの身体が欲しかった。でもそんなことは不可能だから、徐々に年老いていく身体とともに、懸命に生きるだけだ。

「まだ日本を信じられた時代」よ、安らかに眠れ。

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