直子 デチェン

1999年初渡印。2003~2015年インド・ダラムサラ仏教論理大学聴講。現在も殆どヒマラヤの麓、ダラムサラで暮らす。 100円投げ銭サポート募集中!インド自炊で一食分・・・二食分?(^人^)ゞ

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1999年初渡印。2003~2015年インド・ダラムサラ仏教論理大学聴講。現在も殆どヒマラヤの麓、ダラムサラで暮らす。 100円投げ銭サポート募集中!インド自炊で一食分・・・二食分?(^人^)ゞ

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    • スピティ Spiti,H.P.

      2021年9月、インド北部ヒマーチャル・プラデシュ州、スピティへの旅行記です。 マナリから山を越えてチベット国境の近くまで。古い僧院や人界から離れた修行の地まで、友人と一緒にインドに来て初の自由旅行!

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    菩提心の称賛《宝珠の灯》第356回+α

    356)と、「菩提心の称賛・宝珠の灯」 と呼ばれるこれも、 ラマ テンジン・ゲルツェンが バラナシで綴った。 一日一偈 後書きにも一日。 とてもシンプルな言葉から ご自身もシンプルで 大切に 一偈一偈を綴られたのだろうと 想像する。 大事なことは そう多くない。 菩提心の称賛《宝珠の灯》第一偈 我は仏陀と、その法と、 その後続者方を 不変の信仰によって仰ぎ見る。 帰依し、祈りもする。 1)他を利益しようと誓われた月の 部分が完成したことより現れた 世尊は衆生の

      • 菩提心の称賛《宝珠の灯》第355偈

        355)最高の菩提心から始まって わずかに述べた善があり得るならば、 天空に等しい母達の 心に菩提心が生じるよう祈る。 人は皆幸せになりたいし 周りの皆も 幸せになって欲しいと祈るものだ。 幸せの形はいろいろあるように 幸せに至る道筋もいろいろあるけれど、 全ての者に最も当てはまる幸せと そこへ至る道で 自分の知る限り最善最高のもの 菩提心を クヌラマリンポチェは説いてくれた。 押し付けではなく誠実に 「あり得るならば」 という言葉を添えて 皆が自ずか

        • 菩提心の称賛《宝珠の灯》第354偈

          354)自らの心に修習させるために この菩提心のあり方を説いた。 ここに誤りの部分があるならば、 仏菩薩の御前で懺悔する。 思いを文字に写すことで 朧げであったことが はっきりと形を現すこともある。 特に形の無いものごとは 考えている自分自身も あやふやだったり 時々は気持ちが逸れてしまう。 心をその方向に集中させるために 言葉を綴ることは役に立つ。 他者にそれを伝えようとすることも 大切なことであろうが 先ず自心が 自然にその状態になっていること。 清浄な水源か

          • 菩提心の称賛《宝珠の灯》第353偈

            353)輪廻と寂静の果てに留まらない 無上の最高の境地を 得させるものは菩提心であるので、 友らよ、大切になさるとよい。 先輩から後輩への アドバイス。 世の中に流される 輪廻の果てに留まらず 我のみ輪廻から離れた 寂静の果てにも留まらない、 どちらをも見ながら どちらにも落ちない 大菩提を得る道標であり ツールであり それが無ければ辿り着けない 源泉である菩提心を 大切に起こし、 保ち、 強めなさいと、 先輩がいっている。

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            菩提心の称賛《宝珠の灯》第348〜352偈

            348)自利を達成することを棄て去り 利他を達成することを敢えてして 我より他を大切にする菩提心を 努めて自らの心に合わせたまえ。 349)菩提心にとって父や母、 親友、師、妻や子のように 思って、一切の様相において 利益し喜び愛する想いを持ちたまえ。 350)完成した菩提心を具えた 聖者が、一瞬であろうとも 毒に等しい自利を 承諾することを何処でなさろうか。 351)自他交換などによって 最高の世俗の菩提心を修したまえ。 極辺から離れた智慧などによって 最高の勝義の菩

            菩提心の称賛《宝珠の灯》第347偈

            347)我と天空に等しい全ての衆生は 楽を求め苦を求めないと 見て、自他を交換する心によって 常に菩提心を修したまえ。 心をもつ者は全て、残らず、 基本的な欲求として 幸せになりたい という望みがある。 「幸せ」や「楽」は それぞれの者に それぞれの意味があるけれど 根本は ただ「あってよい」という シンプルな肯定感に 紐付くものではないかとも思う。 反対に ただ「あってよい」ことを 害されることに 苦しみを感じるのではないか。 誰の心も同じように反応する故

            菩提心の称賛《宝珠の灯》第346偈

            346)王と王子達が 一度のみならず菩提心を称賛した。 それ故に、自らが善くありたい者は 迷いなく菩提心を保持したまえ。 言葉というものは 特定の意味を伝えたい という動機があって 語られる。 その意味も 言葉が必要ない世界であれば 心から心へ 伝わるだろうけれど 心から心へ伝えることが難しい世界では 選ばれた言葉によって 伝えられる。 この世界は 言葉を発する者で溢れているけれど 本当に大切な意味を 適切な言葉で伝えている者は 多くはないのかもしれない。 更に

            菩提心の称賛《宝珠の灯》第343〜345偈

            343)聴聞される最高のもの菩提心。 説かれる最高のもの菩提心。 精査される最高のもの菩提心。 修習される最高のもの菩提心。 344)菩提心が捨て去るべきものを 捨て去らぬことがあろうか。 菩提心によって得るべきものを 得ぬことがあろうか。 菩提心が利他行をなさぬことがあろうか。 菩提心が自利行をなさぬことがあろうか。 345)菩提心が、完成した 仏陀の地へ放つことをする。 善行が、幾らかの身体ある者を 諸々の善趣へと放つように。 343偈 「聴聞」とは学ぶこと。 昔は

            菩提心の称賛《宝珠の灯》第342偈

            342)完全なる菩提心を 持つ聖なる者たちは、 楽でも様子が変わることはなく 苦しくとも様子が変わることはない。 楽や幸せ あるいは苦しみで 様子が変わる者は、 我を感じている者であるともいえる。 私が楽だから 嬉しそうに喜び 私が苦しいから 痛々しく嘆く。 ここに自他全てを含んだ 全ての者の幸せを 一番に考える者がいたとすれば、 皆の幸せがあれば喜び 皆の苦しみがあれば悲しむ。 我の幸せは もしかすると 小さ過ぎるのかもしれない。 我の苦しみも もしかする

            菩提心の称賛《宝珠の灯》第341偈

            341)菩提心の福徳を 基準で量りたいと望む者は、 空を腕を広げて測ったり 海を片掌で量るに等しい。 環境や文化的な背景で、 測る時の基準も変わる。 mm、cm、m、Kmは 日本人がよく使う基準だけれど、 チベットでは 中指の関節の長さ (sor mo dbus ma’i tshigs)や、 開いた親指の先から中指の先まで (mtho)や、 肘から中指の先まで (khru)や、 両腕を広げた先から先まで (‘dom)が 長さの基準で使われる。 両腕を広げて空を測

            菩提心の称賛《宝珠の灯》第340偈

            340)空の宝石で暑さに苦しむ象が 蓮華のある泥沼に入るように、 心の宝石をもつ者は、菩提心の 湖に、まさしく自然に入る。 「空の宝石」とは太陽のこと。 「象」は修辞法を通して訳してあるが、 チベット語では 「手を具える(lag ldan)」で、 手を具えるように鼻が使えるので 象を示すそうだ。 暑さが厳しくなると 泥沼に入って涼を得る象は 昔も今も変わらない。 「心の宝石」は 自ずから具えている 優しさである場合もあるし 賢さ、知恵である場合もある。 素直に

            菩提心の称賛《宝珠の灯》第339偈

            339)うちに菩提心が無ければ、 振る舞いが美しくとも、何の役に立とうか。 うちに菩提心が無ければ、 教えや道理を語っても、何の役に立とうか。 その人のなした行為は、 動機によって 結果をどう経験するのかが変わる。 同じ行為をしていても 相手を思いやってなした行為であれば、 その結果 自分に対する 他者からの温かさで返ってくる。 相手を大切にしていなければ、 大切にされない結果が返ってくる。 楽、幸せと 苦、不幸は 心で感じるものだから、 外からの働きかけが同じで

            菩提心の称賛《宝珠の灯》第336〜338偈

            336)最高の世俗の菩提心の 修行は自他交換などであり、 最高の勝義の菩提心の 修行は空性を修習するのである。 337)歩むなら菩提心によって歩む。 居るなら菩提心によって居る。 起きるなら菩提心によって起きる。 眠るなら菩提心によって眠る。 338)視るなら菩提心によって視る。 食べるなら菩提心によって食べる。 語るなら菩提心によって語る。 考えるなら菩提心によって考える。 336偈「自他交換」とは、 自分のみが得をすることを客観的にみて 不自然であると認識し (わ

            菩提心の称賛《宝珠の灯》第335偈

            335)多くの功徳によって 飾られていようとも 菩提心が劣っていれば、誰が尊ぼうか。 姿形は見て好ましくとも 目が劣っていれば、誰が尊ぼうか。 これがあれば それは本質的に素晴らしくなり、 無ければそうでもない、 というものが幾つかある。 人によってポイントになることは様々。 それでも見た目において 「目」が注目ポイントになることは 古今東西同じらしい。 その人自体はどうなのか? と問えば、 容姿最重要の人もいるだろうが 内側が大事という人もいる。 世の中生きる

            菩提心の称賛《宝珠の灯》第334偈

            334)菩提心と離れれば、 賢くとも何になろうか。 菩提心と離れれば、 真面目であろうとも何になろうか。 菩提心と離れれば、 善良であろうとも何になろうか。 それ故に、菩提心を具える者を 大切にしよう。 チベット語直訳では、 「〜賢くとも何。 〜尊者であろうとも何。 〜善良であろうとも何。 それ故に〜」 となる。 「尊者」とは、 身口意の悪行を律して 徳行を厳しく勤める者。 出家者の多いチベット人社会では よく聞く言葉だけれど、 日本の口語ではあまり聞かないので、 「

            菩提心の称賛《宝珠の灯》第333偈

            333)菩提心と関係する善は 一切相智まで、まさしく増大する。 白い月の部分が だんだん満ちていくように。 下二行直訳では、 「白の方向の月の部分が 上から上へと増大する如く。」 「一切相智」とは、 一切の様相を、覚めて直接悟っている 仏陀の智慧。 仏教論理学で使われる 「関係」には、 二つの関係性がある。 ①同一である関係性 ②因果である関係性 ②の場合、一般的に 結果が原因に関係するという。 ということで、 菩提心と関係する善とは、 善そのものが 菩提心と質