直子 デチェン

1999年初渡印。2003~2015年インド・ダラムサラ仏教論理大学聴講。現在も殆どヒ…

直子 デチェン

1999年初渡印。2003~2015年インド・ダラムサラ仏教論理大学聴講。現在も殆どヒマラヤの麓、ダラムサラで暮らす。 100円投げ銭サポート募集中!インド自炊で一食分・・・二食分?(^人^)ゞ

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  • スピティ Spiti,H.P.

    2021年9月、インド北部ヒマーチャル・プラデシュ州、スピティへの旅行記です。 マナリから山を越えてチベット国境の近くまで。古い僧院や人界から離れた修行の地まで、友人と一緒にインドに来て初の自由旅行!

最近の記事

いっしょ

一人ででもやろうと思っていることを 誰かが何もいわずに手伝ってくれると とてもありがたいと感じることがある。   一人でやるには気力体力、もつかどうか不安な時、 殊更に強く感じる。   誰かと一緒にいることで 感じることができる安心は、 現状維持の心に繋がるかもしれないが 感謝もともに呼びおこす。   心について語る時に難しいことは、 全ての人が、それぞれに違った経験体験を持っているので、 一つの経験によって起こる感情が 全ての人の心に当てはまらないということだ。   そ

    • あらわす

      何の思惑もなくただ純粋に 発せられた表現は人の心にとどく。 柔らかくなるほどに熟れた柿を スプーンですくって食べて 「あまーい」 とニコニコ顔で喜ぶ母をみて 世間に揉まれ、 やや純でなくなっている自分に気づいた。 ただそのままの嬉しさや喜びは 見ているこちらの心も嬉しくさせる。 小さな子どもは 思ったことをそのまま言葉にする。 あまり周りの状況を考えていない。 それを恥ずかしいと感じる大人もいるけれど、 「恥ずかしい」と思い行動を制限する何かは 強すぎると重荷にな

      • しんじる

        信じるものがあると、 人は強くなる。   倒れても起き上がることができる。   以前、インド東北のラダック地方で洪水があって 家が流され、沢山の人が被災された時、 そこにおられたお坊さんの先生がいっていた。   信仰のある人は 家族を失うような悲しみがあっても 祈りで自らを救うことができた。   信じるものがない人は 悲しみに心を奪われて 立ち直ることが難しかった。   信じることの強さは 逆境の中ではっきり分かる。   逆境でなくとも 自分のことをラッキーだと信じている

        • きづく

          知っていたけれどはっきりしていなかったことが、 明確な言葉、イメージを認識することで 改めて気づくことがある。   当たり前に聞こえていた 家族の寝息にふと気がついて、 安心して寝ていてくれて良かったと 改めてありがたく感じることもある。   近さ故に、好き嫌いの感情が入り混じって、 ある時には、とても大切に感じて 別の時には離れたいと思う相手も、   どの部分が好きなのか、 どの部分が嫌なのかはっきり気づくと、   両面を見たうえで、 全てをひっくるめて愛情をもっているか

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          直子 デチェン

        記事

          さがす

          心を向けているものが 目に飛び込んでくる。   何かに注意を向けていると それに関連したものごとに 目が行きやすくなるものだ。   猫好きは、道を歩いていても、SNSを見ていても、 猫をすぐに見つける。   喜びを与えてくれるステキなものを 脳は認識しやすい。   人の好みは千差万別なので 同じものを見ていても、見る所が違っていたとは よくあることだ。   自分に何か役立つことも アンテナを立てていると 目に入って来やすくなる。   以前は何となく通り過ぎていたものの中に、

          うごく

          自転車で走っていると 上着を通して胸にあたる風が 冷たく感じる季節になった。   ようやく秋を実感している。   太陽が出ているのに空気が冷たい。   今日は、布団を二階のベランダに運んで干した後、 家の障子を一枚張り替えようと思い 古く乾いた障子の紙をバンバン破り、 サンに張り付いた部分をとろうと 細く裂いた布や新聞紙に水を含ませて、 障子のワクの上においてある。   身体を動かしていると、 嫌なことを忘れるものだ。   これは、五感に意識を向けているからでもある。   五

          そろそろ

          そろそろインドへ一時帰国の日が近づいてきた。   今年の日本での一時帰国では 例年と違い、 実家に留まることなく、行きたいところへ行くことができた。 家族に感謝である。   5月には 京都の御金神社と岡山のサムハラ神社奥宮へ。   8月には 四国剣山と神山町へ。   新宿曙橋のタシデレさんや 神奈川県南林間のチャンドラ・スーリヤさんで 自分の興味が向く方向のお話会もさせて頂いた。 こんな珍しい内容のお話会に来て下さった方々、主催者の方々へも 心よりお礼申し上げます。   そ

          おなじこと~「癒しの順番・修行の階梯」お話会~

          その時の心の状態で、 結果が変わってくる。   「同じことをしているのに、それは無いだろう」 と思われるかもしれない。   確かに、目にみえる形としては同じかもしれない。 働いたエネルギー量も同じかもしれないが、   結果が変わることがある。   分りやすいのは、学生時代の勉強である。   自分の好きなこと、新しいことを知ることが楽しくて 寝る間も惜しんで勉強したことと、   義務化された試験をパスするために 寝る暇もないほど勉強したこと。   寝ないで勉強したことは同じ。

          おなじこと~「癒しの順番・修行の階梯」お話会~

          みえる・きこえる ~「癒しの順番・修行の階梯」お話会~

          自宅の前に通りがあって、そのつきあたりは幼稚園になっている。 お父さん、お母さんと子どもが、朝と午後に行き来する。   窓から直接道はみえないけれど、 お母さんの声と、子どもの声がきこえる。 ときどき、お父さんの声もある。   窓からみえる庭の木の葉には太陽の光が反射して、 最近は金色がかって見える。   鳥の声もきこえるし、 虫の声もきこえる。   隣の門扉のあく音、しまる音。 何だかわからないがタッタッと軽くはじける音。   暑くも寒くもないけれど空気が動くことを感じて、

          みえる・きこえる ~「癒しの順番・修行の階梯」お話会~

          かいだん~「癒しの順番・修行の階梯」お話会~

          かいだんは、先ず下から上がる。 下の段がなければ、安全に上ることができない。   形あるものも、心も同じで、 特定の結果の前には それに続く特定の原因がある。   修行の道もおなじである。   以前、外から仏教を見ていた時には、 「皆を幸せにするために、仏陀になる修行をするのだ!」という心を ただ『偉いなあ』と思うだけだった。   実際起こしてみたいと思った時も、 ただその心のように思えば良いと思っていた。   ところがどっこい。   法話やその時の環境で盛り上がり、 その場

          かいだん~「癒しの順番・修行の階梯」お話会~

          おちつく~癒しの順番・修行の階梯」お話会~

          最近、見ていてホッとする動画がある。   チベット語の授業の動画である。 お坊さんの先生が、黒板にカツカツと白チョークで文字を書きながら、 ときどき自分の間違いに自分でツッコミを入れながら、 ときどき「アロー(しょうがないな)」といいながら、   ときどき「うさぎが跳ねながら行くだろう?」といって 自分で跳ねながら、   「例は世界中にあふれてる」とか 「わたしが言うから(そうだというの)じゃなくて、 自分で調べて決めなさい」といいながら、   滔々と、チベット語文法について

          おちつく~癒しの順番・修行の階梯」お話会~

          しあわせ ~「癒しの順番・修行の階梯」ゆったりお話会~

          皆、幸せになりたい。   特に日本人は 「皆と一緒に幸せになりたい」 と思う人が多い。   そのために、日常生活の中で小さな幸せを見つける努力をしたり、 信じる道への修行に入って、 自らと他者の幸せを得ようと頑張る。   得られた人は素晴らしい。 幸せな人と一緒にいると、自分も嬉しくなる。   一方で、学んだとおりに実践しているけれど、 思ったとおりの結果になかなか至らない人もいる。   同じ話を聴いているのに 何故素直に受け取ることができないのか、 同じように実践している

          しあわせ ~「癒しの順番・修行の階梯」ゆったりお話会~

          学びながら伝える

          学びながら伝える内容が、 実は最も新鮮で 伝わりやすい知識なのかもしれない。   先日先生と話していて、 重陽の日(9月9日)から 『レクシェ・ジュンワン(legs bshad ljun dbang)』という チベット語基礎文法解説テキストの勉強会が始まるという話になった。   チベット人の子ども達が学校で暗記しながら習う 国語の教科書に載っているテキストである。   これが実は非常に使える文法テキストで 覚えておけば品詞の分類や意味、使い方が一目瞭然。 文章を書く時にとても

          学びながら伝える

          食と心

          健全な精神は、健全な肉体に宿る。   健全な肉体は、健全な食で作られる。   健全な精神、素直な心は、 信仰以前に大切なこと。   素直な心で信仰に向き合えば 力を抜いた自然な状態でスーッと教えが心に入る。   『おかしいな』と思えばピピピとアンテナが立って その信仰が本当に自分の役に立つものかどうか 自ら精査することができる。 これが身を護る。   何らかの思い込みで心が偏っていると、 それができない。   思い、心は 普段の食べ物にも影響される。   肉、野菜、穀物な

          南インド僧院物語

          広い大地に大きな空 美味しい南インド食など 南インドには楽しみどころが沢山あるが、   それにもまして印象に残っているのは 僧院へ行くため南下する電車で回ってくる チャイ売りおじさんの声である。 (お兄さんの場合もある)   低音高速で 「チャーイチャイチャイチャイチャイ。 チャーイチャイチャイチャイチャイ。」 とミツバチがうなるが如くチャイを売りにくる。   不思議なもので、 誰が言っても同じ声音。   なのでモノマネもしやすい。   インド北東山間部の田舎から僧院に出て

          南インド僧院物語

          話したい

          言葉を幾つか知っていて 相手に伝えたいことがある。   でも言葉の並べ方を知らなくて 話せないということがある。   不思議なもので、 新しい言語を習い始めた時は 知っている言葉を羅列するだけでも、何とか意味は通じるので ただ言葉を言うだけで嬉しくなる時期がある。   自分が話をしたい相手、先生・友人・道行く人々がいて、 一生懸命話せば初心者としてそのあり方を受け入れてくれるし、 「良く知らないのに頑張って話してるね」と温かい目で見てくれる。   でも、自分が伝えたいことを