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友だち100人できません

 ようこそ、もんどり堂へ。いい本、変本、貴重な本。本にもいろいろあるが、興味深い本は、どんなに時代を経ても、まるでもんどりうつように私たちの目の前に現れる。

 「いちねんせいになったら ともだち100にんできるかな」。これは、誰もが知っている子供用の歌の一節だが、最近になってわかったことは、友達100人つくるなんて無理だということだ。

 うちの死んだ父は「俺には友達がいない。人の世話もしないし、人の世話にもならない」なんてうそぶく偏屈な男だった。その息子はといえば、ある友人の結婚式の司会を2回連続頼まれ(初婚と再婚)、そのわりには3回目の結婚の時には一切連絡もされなかったという微妙な経験を持ちながら、数少ない友人と付かず離れずの関係で人生を生きている。

 付きすぎれば摩擦も起きるし、離れすぎればまた寂し。友との関係性、すなわち「友情」はとても大きなテーマである。そんな折、わたしの手元にもんどってきたのがこの本である。

 『友情論』(堀秀彦著、角川新書、昭和33=1958年刊、入手価格105円)。

 ものすごくストレートな本だ。今から50年以上も前の本だが、「友情」という言葉が、今で言うところの「絆」や「婚活」なみに注目される言葉であったということが、なんとなくだが伝わってくる。

 しかし、いつから人はこの「友情」に絶望するようになってしまったのか。

 人間が「利得」や「コスパ」や「見た目」のみを追求し、暑苦しかったりめんどくさかったり頭にきたり……そんな友情関係をいつからバカにするようになったのか。

 友達100人つくるというあの歌の意義はもちろん、利得を越えた純粋さの鼓舞であり、社会的な思いやりを育んでいくための指針だ。著者は「友情は『肉体の参加しない交わり』」と説いた。肉体的には会うこともなく10年や20年が過ぎても、友達としての関係性や精神性は保たれるということを強く論じてみせる。

 残念ながら、これ以上ここで友情を論じる紙数はない。だが、古本とはいえ、「友情論」などという言葉がまだ市場に存在したことに、なんだか少しホッとした。

 今週のもう一冊は、読み返したくて新たに入手した、青春野球マンガ『キャプテン』(ちばあきお著、集英社文庫)。友情の匂いがぷんぷんする、わたしの初めての「社会への教科書」である。

 中島みゆきの歌の一節に、人の悪意を信じている男が「突然に温かな人に出会って泣いたりする」という歌詞があった。友達100人はできないことがわかった。だが、わたしはまだまだ、「友情」で泣くことをあきらめてはいない。

                     (2014年、夕刊フジ紙上に連載)

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